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温故知新(詰パラ287号-01)

 今日から数回、287号(昭和55年1月号)を読んでみることにしよう。
表紙は駒場和男氏の超悪形作品。「エトはサル。その初形は顔、終形は全身と見立てられないものか」という一文を目にすれば、古い読者なら「ああ、そういうこともあったな」と思い出されるのではないだろうか。

「ズバリ放談」では上田作品を取り上げている。

           上田吉一

63 上田吉一

    (近代将棋 昭和54年1月号、 第53期塚田賞中編賞)

14角成、同銀、24銀、25玉、26歩、同玉、35銀、15玉、24銀、26玉、
27歩、25玉、45龍、35歩、26歩、同玉、35銀、15玉、24銀、26玉、
27歩、16玉、56龍、36角成、17歩、25玉、36龍、同龍、16角、同龍、
35と迄31手詰。

 この作品が名作であることについては今更言うまでもないが、面白いのは筆者俵氏がこの作品について絶賛した後のくだりだ。

南「何れにしても、上田さんは素晴らしい才能の持主で、現在詰棋界の最高峰であると断言したい」
西「南さんの説に異論をさしはさむ人は居ないと思うが、断言するとなると苦情が出るかも知れんよ」
東「例えば、駒場和男、七条兼三、田中輝和、山田修司等の大物をどうしてくれる?、ということ?」
西「そういうことかな」
南「東さんがあげた作家たちも確かに優れた作家だが、その人達よりも一歩進んだ何か――より近代的な香りといったものを上田さんの作品から感じる。この点が違っているように思うんだ」
東「なる程。別の面から云えば、上田さんの作品には、たとえ歩一枚でも少なくしようという努力――、練りに練った跡が感じられる。云わば、精錬の作風がうかがわれるね」
南「それが裏目に出る事もあろうが、何れにしても、たいしたものだ」

(後略)

 予想された通り、この一文に対し後で駒場氏がかみついたのは周知の通り。しかし、はっきり言って駒場氏がエゴを垂れ流しただけのくだらない論争(というか、論争というレベルにすらない)なので、このことについては取り上げない。むしろ私が気になるのは、これを書いたとき筆者の念頭にあったであろう「精錬の作風が裏目に出た作品」とは、一体どの作品のことなのかということだ。上田氏の作品に限らず、推敲し過ぎてかえって駄目になってしまった作なんてあるのかなあ?


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