弘前グループのこと(2)

 記憶がはっきりしないのだが、確かこの旅の後に僕は編集長から検討者になってくれと頼まれている筈だ。解図力がないので「潰す」ことはできなくても、作者の見落としを指摘する位はできるだろうと考えて引き受けたのだが、今から考えると完全な人選ミスである。その後のパラ誌上の完全率の低下にかなり貢献したようである。しかしその時の検討者は僕の他には3人しかおらず、編集長は猫の手でも借りたいという心境だったのだろう。

 編集長が第1回目の検討用作品25作を郵送する際の私信に、青森の新会員紹介として笹森氏の名前を出しているので、氏とはその年の秋頃知り合ったのだと思う。彼もまた弘大生であり、僕等より4つか5つ年上だったようだ。これで弘前グループのメンバーが全員揃い、ほどなく会合の場所は笹森邸にほぼ固定されることになる。

 弘前グループの活動内容は、相馬君の作品の批評及び検討と、図巧・無双の鑑賞、研究が主だったものだった。週に1度(多い時は2度)というハイペースで会合を続けていたのだが、詰将棋以外の話題というのは殆ど出なかったように記憶している。普通の大学生なら、たとえ詰将棋が縁で友達になったとしても、ずっと詰将棋の話しかしないということはないだろう。しかし僕等は、一緒に大学生らしい遊びをするということは一切なかった(だから僕は、詰将棋をしていない相馬慎一がどんな人間なのか、全く知らない)。
 あの頃の僕等にとって、詰将棋は決して「趣味」などという軽いものではなかった。僕等は詰将棋に文字通り「取り憑かれて」いたのだった。そしてそのことを、詰将棋の神に愛される為の必要条件として誇りにさえしていたのだ。

 383号(88年1月号)から、相馬君は大学の担当を始めている。しかし、本当のところ彼が何を考えて担当を引き受けたのか、僕には良く分からない(彼は相当な筆不精である)。彼の担当は399号まで続いたのだが、実質的には396号迄である。途中2回程は僕が代筆をしたが、397号以降は編集長が全部書いたようだ。今考えると、弘前グループで大学を担当して3人の合評形式にでもすれば、もっと長いこと続いたのかもしれない。
 ただし、彼の書いた文章には結構気の利いた一節もあり、彼なりに一生懸命書いていたことが分かる。個人的には某氏の作品に対する「作ってはいるが創ってはいない」という一言が印象に残っている。

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