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耳栓をされるクラシックの気持ちにもなってみたまえ

これはまだ図書委員と結婚する前。
二人暮らしを始めたばかりの時の話。

ある月初の月曜日。
仕事が忙しく疲れ果て、早々に帰って晩御飯の支度をしようと電車に乗り込む。
座席に座って一息ついた頃、人身事故で約一時間電車が動く見通しがないとアナウンスが流れる。

今日は急いで一本早い準急に乗れたからスーパーの閉店に間に合うはずだったのに……。
味付けしてあるトンテキを買ってあとは米を急いで炊いて適当に野菜を大量に入れた味噌汁だけ作る平日豪華食卓の予定がガラガラと崩れ落ちていく。

アナウンス通り一向に動く気配はないので早々に停車駅で脱出することにした。
降りたことのない駅で夕飯を一人で食べて時間稼ぎをしたら電車も動き出すだろう、と思っていたところ別の路線まで歩ける範囲内であることがわかった。
そこから2,3駅乗ったらバスで我が家まで帰れる。
待ち続けるより少しは早く帰れそうだ。

良く晴れて良い風の吹く夜だったし、散歩がてら歩いてもいいかなと思っていると、図書委員も同じ路線で帰宅する旨の連絡がきた。
駅で落ち合い、簡単に夕飯を食べて帰ろうということになった。

図書委員の方はメジャーな乗換駅を利用するため、激しい混乱の渦に揉まれてただでさえ病人のような顔つきがより気の毒に見えた。
通常の状態でも知らない人から「あまり気を落とさないでね」と励ましてもらいながらお菓子をもらうことが多い図書委員。
少しでも疲れると死相が出る。

あまりの死相に、これはまずい、とにかく急いで帰って寝かせなくてはならない、と焦り目に付いたすぐ側のラーメン屋に入ることにした。

ラーメンは至ってシンプルな昔ながらの塩そばと醤油で歩き疲れた体に染み渡った。
しかも運が良いことについでに何となく頼んだ餃子が大当たりであった。
ずっしり重く、皮は外パリ中モチ、噛んだ瞬間肉汁がじゅわりと溢れ出した。おかげで二人のHPは50ほど回復した。

帰りのバスの中、二人掛けの座席に並んで座れる。
バスに揺られながら二人暮らしは良いな、としみじみ思った。

一人だったら動かない電車の中、根比べして動き出すのを待ち続けてげっそりするか、一人で夕飯を食べて時間潰しして本来早く帰ったら出来たはずのことに思いを馳せてげっそりするかのどちらかしかなかった。

待ち合わせをして美味いラーメンと餃子を食べながら店内で流れている華原朋美の楽曲のハラハラするのに上手という不可思議な歌唱法について語り合い、当時私小学生、図書委員高校生であることに遠い目をする時間など、一人だったらあるはずがなかった。

帰宅し、大急ぎで入浴し、さっさと寝支度を済ませる。
二人ともくたくた。満身創痍で布団の中へ。
眠りにつく前、図書委員はなぜか羽賀研二の話を始めた。

大好きなビッグモーターの話をする時と同じテンションになってきて、これは暫く止まらないぞ……と呆れ果ててポロリと指摘した。

「また、あなたはビッグモーターと同じ星の人が好きなんだから……」

何となく羽賀研二とビッグモーターは同じ星から来た星人のような気がした。

図書委員の瞳に輝きが宿る。
「本当だ! ビッグモーターと羽賀研二同じ臭いがする! トランプ大統領も!」

図書委員はビッグモーターのような嘘みたいに出来上がった胡散臭い事件の話が大好物なのだ。
ビッグモーターの話ばかりする時期があって呆れ果てて
「あなたは本当にビッグモーターの話好きね」と言うと決まって
「す、好きじゃないもん! 義憤に駆られているだけだもん!!」
とツンデレおじさんのムーブをかましてくる。

私もだんだん羽賀研二の話に乗ってきてしまう。

私「しかし羽賀研二だってアラジンの声やったりして、地道に頑張ってれば顔のキャラが濃いから良い俳優になれたかもしれんのにね……」

図書「羽賀研二にはピエール瀧みたいに石野卓球的な存在の人がいなかったんだろうね……」

私「あぁ、確かに……。立ち直る時にそういう人がいてくれるかいないかは大事だよね。でもそういう人ができるような人間関係を築いてこなかったのもまた羽賀研二の人生だからね……(勝手な憶測)」

図書「あぁ、そうだね、良いこと言うね」

「……」

私「私たちは疲れて早く寝ようという時に何故布団の中で羽賀研二の話をこんなに真剣にしているんだろうね」
図書「早く寝よう」

我々は部屋の明かりを消した。

図書「ねぇ、寝る時にうすーく音楽をかけながら寝てもいい? いつもそうしてるんだ」

図書委員には寝る時ごく小さな音量でクラシック音楽をかけながら眠る習慣がある。
ほとんど聴こえないぐらいの音量だし彼の音楽の趣味はわりと私にも合うので承諾した。
しかしその直後。

図書「じゃあ僕寝るね。あ、僕寝るときは必ず耳栓するけど気にしないでね」

私「え? 音楽かけながら寝るのに耳栓するの?」

部屋の中に漂う優しいクラシック音楽は本当に耳を凝らさないと聴こえない程の音量だ。
一体この音楽は誰がために鳴り響くのであろう。
私のため?
私がいないときはどうしてたの?

図書委員は寝返りを打って私に背中を向けた。

図書「耳栓してるから何を言ってるかわからないなあ」
私「今までずっとそうしてきたの? 音楽かけながら? 耳栓して?」

図書委員の背中がくつくつと笑っているのがわかる。
布団の塊が揺れている。

多分、二十数年間の習慣で当たり前になっていたが、その矛盾を初めて他人に指摘され自分でも初めて気づいたのだろう。
そのアホ加減に自分で笑いが堪えられなくなってしまっている。

私もその背中のアホアホしさに耐えられず、寝ようと思えば思うほど腹の奥底から笑いが込み上げてきて眠れない。
痙攣のように笑い涙まで流れる始末。

体は月初の仕事の忙しさと電車のトラブルに巻き込まれ、疲れ果てているのに全然眠れない。
笑い疲れ、私たちの月曜日がようやく終わった。

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