3月5日 -約束の日-
注:ペルソナ3に関するネタバレみたいなことが書いてあります。
3日前の8月5日の朝、いつも通り電車に乗ってTwitterのトレンドを見た自分の目に飛び込んできたのは「3月5日 約束の日」というワードだった。一瞬なんのことかわからず「3月5日と約束の日、、、ってなんだっけ、、、、?」と思いながら、そのワードをタップして出てきたのは、あまりにも懐かしい中学高校時代のペルソナ3の記憶だった。
ペルソナ3という作品
ペルソナ3というそのゲームにあったのは10年前のことだった。高校に入る直前、PSPを買った最初の頃にかったのがペルソナ3ポータブルだった。その後大学を卒業して今まで、読書や映画を見るのと同じ程度にはゲームをして、その中で今でも心に残っている作品はいくつかある。ペルソナも3以降、ペルソナ5までの3作品をやってきた。その中でおそらくこのペルソナ3は人生で初めて、強烈に印象に残っているゲームなんだと思う。
ペルソナシリーズは、高校生を主人公にしたジュブナイルRPGと呼ばれるジャンル。主人公は高校生として1年間を過ごす。RPGとして与えられているストーリーを進める一方で、1年間365日の1日1日をどう過ごすかはプレイヤー自身が自由に選択できる。名前がない主人公の行動を決めるのは、自分自身であり、そこにでてくる主人公の仲間たちもみな、年相応の悩みを抱えて生きている。演出でアホらしいと感じながらも、キャラクターが抱えている悩みのどれかは、共感できるものが多い。ああ、でも共感という面ではペルソナ4が一番多いのかもしれない。ペルソナ4の仲間たちは、必ず自身の醜い面と対峙させられる。その醜い部分は多少なりともおそらく現実に生きる自分たちにもあるものだろうから。ペルソナ4もペルソナ5も印象は強いけれども。やはり3は自身のゲーム体験の中では強烈なものだった。
「時は待たない。。。」のモノローグではじまるペルソナ3は高校生という学生を主人公にしたゲームにも関わらず、「メメント・モリ(死を想え)」をテーマにしたシリアスな作品だった。(特にその後でた4と5に比べるとシリアス度は高かった)。中でも初見なんとなくプレイしてエンディングを迎えると、1年間という「有限性」を強く実感させられる。ゲームを開始してから、自分がおそらく自分ならこうするだろうなと選択し続けていた主人公は、ゲームのエンディングであることから死を迎えるからだ。
主人公が死ぬことで、終わり、なんとか死を回避できないかと2周目をする。すると上のモノローグが流れる。そして、主人公が最初に会うある少年は、主人公に契約書のサインを書かせた後、こう言う。「時はすべてのものに結末を運んでくる。たとえ耳と目を塞いでいてもね」はじめて、終わりを変えられないことを悟って、「どう終わるか?」を考え始める。そういうことで、記憶に残っている。
約束の日と作品を想うこと
という長い前座。タイトルの3月5日というのはペルソナ3のエンディングにあたる。それ以前の「最後の戦い」の影響で主人公以外の仲間たちは記憶を失う。その「最後の戦い」の以前に主人公が仲間たちと「卒業式に屋上で会う」という約束の日が3月5日の卒業式なのだ。というところで中身を語るのは一度終わりにしたいと思う。おそらくとても有名な作品なので、作品自体に関するエッセイできっと新しく語ることはないだろうなと思っているからだ。それよりも、個人的にとても感慨深いのは、作品が発表されてから14年経った今でも、そのゲームのある1イベントが世間で話題にのぼる作品というのは(作品、またはその製作陣にとって)どれだけ幸せなんだろうという話。で、今までとりあえず量を読んでた自分はどれだけ真剣に作品一つ一つと向かい合ってたんだろうっていう自戒の話。
この時代、流行は凄まじく早くて早かったら1週間、遅くても1ヶ月で新しい作品が出てくる。その中で、14年経っても「約束の日」のようにあるイベントが思い出される作品はいくつかあって、そういう作品はきっと媒体に関係なく大勢に強烈な印象やいろいろ考えさせるものを残して消えていったクオリティの高い作品なんだと思う。クオリティが高くて、強い何かを受け手に焼き付けることができたからこそ15年後にも残る作品ができている。
ユーザーも真剣に作品と向き合わざるを得ないことが多かったのだと思う。ペルソナ3は高校生を主人公にしたゲームを通して、高校生ではおそらく考えないはずの「死」をプレイヤーは考えた(言い過ぎかもしれない)。そういう意味で今でも話題に上る作品は、幸せだとおもう。忘れ去られることすら多くある現代で、今でも思い出として語られ、もしかしたら懐かしさあまりにPS2やPSPというゲーム業界の骨董品を部屋の奥底から引っ張り出す人もいるかもしれない。それは、色々な思いを掲げて作った製作者にとってはとても幸福だろうと勝手に思う。
一方で、今世の中に大量に流れているコンテンツと正面から向き合っているユーザーはどれくらいいるのだろうかとも思う。筆者自身は、ペルソナ3をプレイしていた高校時代と比べて、どれだけそれぞれの作品と向き合っているのだろうかと自問したくなる。あの頃は、一つ一つのゲームや小説を終わるまで読んで、いろいろなことを想像し考えていた。今はどうだろうか。高校時代の友人が制作に関わるようになったと聞いて余計に考えるようになったけれども、製作者が熱意を込めて作った作品に対して自分はどれだけ真剣に向き合っているのだろう。
仕事や友人と飲むことが増えて忙しくなり、コンテンツと真剣に向き合うことがへっていないだろうか。流し読みをしていないか。Netflixや大量に量産される映画を「消費」しているだけになっていないだろうか。自分の中で、数年後にも思い出したり、語れるほど落とし込んだりしている作品は今いくつあるのだろう。ある時見たものが、ふとした瞬間に思い出したり、思いを馳せることのできるくらい色々な考えをめぐらる作品になることが少なくなってきていないだろうか。
きっと、そうしたふとした瞬間にそのそれぞれの作品の「『約束の日』のようなもの」を思い出して、その作品に思いを馳せることができるというのは、大量にコンテンツが生まれ大量に消えていき一瞬で流行が変わる世の中ではとても贅沢なことで。それを多く持つことはものすごく人間の内側が豊かになるんじゃないか。なんて思ったり。
たまに「『どうせこのシリーズは売れるから』程度で作ってんだろ」という人もいる。自分が会っていないだけでそういう人は実際にいるのかもしれない。なによりも、みんながみんな真剣に向き合ってる世の中って言うのもそれはそれで気を張り詰め続けている感じがして生きづらい。
でも自分が今までに会った友人で製作や編集をしている人は、みんな「受け手に何かを考えさせよう」と思いながら熱意を持って作っていて、真剣だった。だからこそ自分も彼らのような人々が作っている作品にはちゃんと向き合いたいなとおもう。
ペルソナ3で「死を想え」を思い出しただけでなく、「作品を想ってみよう」と思った3月8日。