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noteという仮想空間

過日わたしの記事にコメントして下さった方がいる。ネットの世界に最近初めて足を踏み入れた方だった。このnoteがSNSというものの初体験だといわれる。
とても個性的で秀逸な小説を書かれる方で、かつてはプロとして小説を書かれていた方だと認識させて頂いている
その方がこのnoteでこころが壊れかけたとコメントを下さった。
ことの詳細は存じ上げないが、わたしのコメントで「完全に壊れ」ずに済んだと。
コメント欄での返信では、わたしのnoteへの有り方は伝えきれないので、今一度わたしのSNS及びnoteの有り方を書いてみる。

下記の記事は2023年1月にこのnoteに投稿したものを加筆修正したものだ。
思うことがあり、現在では2023年12月以前の全記事を下書きに戻しているが、わたしのSNSやこのnoteへの有り方は今も少しも変わっていない。

この記事はあくまでもわたし個人の、noteをふくめたSNS全般への考えであり、有り方であり、誰に向けたものでも、noteの存在を否定するものでもない。
個人のnoteの有り方は、noteの利用者の数だけある。どれが正しいというものはない。
唯、私たちが生きているのは、この仮想空間にあるnoteではない。
時に、煩わしくても、面倒でも、毎日褒められなくても、うんざりするほど変哲もない現実の今なのだということだけは忘れてはいけないと思う。

文字言葉とお喋り言葉 (2023/1掲載記事・2024/6加筆修正)


今日は文字言葉とお喋り言葉について書いてみようと思います。

ひとつの文字は意味を持たない単なる記号にすぎませんが、その記号をいくつか並べると文字になります。
ただ単に並べられた文字そのものに意味はありません。
誰かがその文字を並べて「何か」を表現したとき、初めてその文字は言葉としての意味を持ちます。

市販されている小説でもエッセイでも詩でも、あるいは雑誌や新聞、ネット記事、広告のチラシに至るまで、さまざまな文字言葉がそれぞれに意味を持って私たちに届けられます。
私たちはその文字言葉に、感動したり共感したり、反発したり、批判したり、同調したり、あるいは購買意欲をそそられたりしますが、その文字言葉そのものが、意思を持って読み手である個人に話しかけたり、賛同したり、批判したりすることはまずありません。

なぜならば、その文字言葉と自分との間には、はっきりとした境界線があるからです。
私たちがその文字言葉を、客観的に読んだり楽しめたりするのは、その文字言葉の後ろにいる「他者」である作者や発信者との間に確かな距離を感じられるからでしょう。

記名記事以外のネット記事は匿名だと思っておられる方も多いと思いますが、厳密にいえばそうではありません。
過去に起きたネットでの捏造記事や不確かな情報による医療記事で、配信元の大企業が告発されてから、web記事配信はとても厳しく自主規制されるようになりました。
当然のこと、私のようなwebライターと呼ばれる者が書く記事にも、厳しいチェックが入ります。
内容に間違いはないかというのは勿論のこと、私感が入っていないか、偏った見方をしていないか、確かな根拠を持って書いているか、など数多くのチェック項目をパスして始めて記事が採用されます。
それは、配信者と読者が確かな距離感を持って存在するために必要不可欠な秩序です。

距離感のあいまいなお喋り言葉

唯一、規制も緩やかで匿名を容認されているのが、SNS等の個人の投稿や動画、コメント欄などでしょう。
SNSでの個人の投稿や動画、コメントなどは、すべてお喋り言葉で成り立っています。
今流行りのミドル・シニアの不幸動画やルーティン動画も、このnoteにある日常日記のような記事も、すべてお喋り言葉です。

日々の出来事や自分が感じたこと、自分の人生観や自己の持つ情報や知識などを、親しい友人に話すように、あるいは仲間と情報交換するように語られると、つい目を止め、文字を追いたくなるのがSNSの魅力なのでしょう。

現実の生活では、見知らぬ人を警戒することもなく自分の部屋に招き入れたり、初めて会った人に自分の心情や生活の内情などをいきなり話したりする人はいませんが、SNSではそれが当たり前のように出来てしまいます。
それが距離感の薄い匿名性を持つSNSのメリットでもデメリットでもあるのです。

人気のある人の動画やSNSになると、一日何万、何千という人が自分の配信を覗き、このnoteでも人気のnoterさん(と呼ぶのでしょうか?)には多くのフォローやスキ、コメントなどが寄せられ、たくさんの人が自分の作品やお喋りに耳目を傾けてくれるのですから、夢中になるのも無理はありません。
毎日のように訪れてくれたり、応援してくれたりする人が増えれば増えるほど、実生活とバーチャルの境界線が薄れていきます。

SNSを通じて現実の友達になったり、仲良しのコミュニティが出来たりすることもあるでしょうが、訪れる人のほとんどがバーチャルな人達です。
かく言うわたしもまた、SNSではバーチャルな視聴者の一人でもあるわけですが。

このバーチャルな視聴者は多くの共感や賛同をコメントとして残してくれますが、また反対に批判や誹謗中傷も簡単に書き込んでいきます。
現実の社会では、初めて会った人に突然いきなり批判したり誹謗中傷したりするようなことはまずありません。
なぜならば実社会での批判や誹謗中傷というのは、互いにそれなりに深い関係性がなければ言えないからです。
また、共感や賛同というものにも同じことが言えるでしょう。
互いの関係が親しければ親しいほど、面と向かってことさら褒めたり、必要以上に持ち上げたりはしないものです。

SNSの落とし穴

現実の社会では言えないことや、見せられない自分を、匿名という隠れ蓑があることで、簡単に文字として書けてしまう。
そしてそれを見たり読んだりした者も、感じた思いをや気持ちを簡単に言葉にして書き込めてしまう。
それが誉め言葉でも賛同の言葉でも非難や批判・中傷の言葉でも、誰でも、いつでも、何の躊躇もなく書けてしまうのが今のSNSです。

お喋り言葉はその人が目の前にいて話してくれているような錯覚に陥りますが、悲しいかな、文字で成り立つお喋り言葉というのは表情がとても薄いのです。
対面の時のように分かりやすく、相手の感情や意思を読み取ることができません。

現実の生活の中では、相手の表情やそのときに置かれている互いの立場などによって、ある程度のことは判断したり理解できたりするものですが、ネット上のお喋り言葉だけではそれができません。
批判のつもりなく書いた言葉が中傷ととられたり、書き込んでいる人を憶測で間違えて決めつけてみたり。
身に覚えのないことを、事実のように書かれたことで、他の人達から侮蔑や疑惑の目を向けられたり。と。

そのことによって、互いが疑心暗鬼になり、傷つき、落ち込み、疲弊し、毎年多くの人がSNSから脱落していきます。
わたしは数十年以上ネットを利用していますが、かつて同じSNSにいた人達も、今ではほんの数えるほどしか残っていません。
それもネット上で多くの人と交流を持っていた人ほど早く消えてしまいます。
それらのほとんどがネット上でのお喋り言葉からのトラブルが原因です。

そしてまた、そんなトラブルや感情の対立や摩擦を避けたいがために、殆どのコメント欄は褒め言葉や励ましや同感のコメントで埋め尽くされる、ということになります。
たとえその記事が自分の意に沿わないものであっても、異なる感想を持っていたとしても、親密になったフォロワー同志であればあるほど本音を吐けなくなります。
そして結果的に現実社会とはかけ離れた、だれもが善人でこころ優しい人達ばかりの(ように見える)疑似桃源郷のようなコンミューンができあがるのです。
そうして作り上げた、自分たちにとって心地よい疑似桃源郷の世界を保つためには、自分達と異なる考えや見解を持つ者、あるいはそのコンミューンの色にそぐわないものは自ずと排除したり、されたりするようになっていきます。そしてまたそこに根拠のない不毛な対立や摩擦が生まれるという、切れ目のない負のスパイラルを繰り返しているようにわたしには思えます。
それがSNSというヤサシイ・コトバという蜜蝋に包まれた巨大虚構コンミューンの実情でしょう。

SNS( note) 依存症

誰でも褒められたり、優しくされたりするのは嬉しいものです。自分の記事や存在を認められると自己肯定感が高まります。
書籍やライター記事のように、誰かに選抜されたり検閲を受けたりすることのないSNSでは、誰でも簡単にそういう満足感や達成感を味わうことができます。
だからこそ、今のようなSNSブームが存在し続けているのでしょう。

毎日の生活の中でSNS(note)が欠かせないのだろうな、と思うSNS(note)中毒気味な人が本当に多いのに驚きます。
わたしの見聞きするnote利用者のほとんどの人が何百人という相互フォロー関係をもっています。毎日どれくらいの数の記事を読めば、あるいはどれだけの時間をnoteに割けばそれだけのフォロー関係が築けるのか、人無精で好き嫌いの激しいわたしなどには到底考えが及びません。

本当に大切なものは、何か

noteは人間関係の摩擦から心を病んだ、あるいは病んでいる人の利用率の高いプラットフォームです。
 現実社会に比べたら、noteの人間関係はなんて心優しい人達の集まりなのだろうと、noteに心の安らぎと救いを感じる方も多いことでしょう。そのことを否定はしません。

確かにnoteの世界の人達は、現実社会の人達のように、すぐにつっかかってきたり、ふくれっ面をしたり、つっけんどんに無視したりすることはないでしょう。
裏を返せば、当たり障りのない人だから、現実の複雑な人間関係にない人だから、素の感情を出す必要がないということでもあるのです。

現実のあなたの隣にいる人は、あなたのことを毎日見ている人だからこそ、あなたに素の顔を見せることができます。
現実の人は、いちいちあなたの言葉を褒めたり、感動したりはしませんが、あなたがそこにいるというだけで、あなたの存在を認めててくれています。
だから、時には辛辣な言葉を吐いたりもするし、口喧嘩をしたりもする。
必要以上に饒舌になったりもしません。
それは人と真正面から向き合っていなければ絶対にできないことなのです。

沢山の人と繋がれる。他者の何気ない言葉に心が救われる。また自分の拙い創作が、時に人の心を救える。だからnoteは楽しくて止められない。それはそれで本当のことでしょう。
しかしそれは、あくまでもバーチャルとしての距離感を持っていてこその楽しさです。
ネットのお喋り言葉は文字言葉のようなはっきりとした距離感をもっていません。
その距離感を保つのはあなたの意志によるしかないのです。

今あなたのとなりにいる人が、一番必要としているのは、SNS(note)で人気者になるあなたではなく、目の前で笑ったり怒ったり泣いたりしている「あなた」でしょう。
そして、あなたが一番大切にしなければならないのは、本当に向き合わねばならないのは、あなたに毎日スキや共感や褒めコメントを書き込んでくれる人ではなく、あなたが現実の窮地に陥ったとき、だまってあなたのそばにいて、あなたの手をしっかりと握りしめてくれる人なはずです。
それを見失うほどSNS(note)にのめり込むのは本末転倒というものでしょう。

このnoteの世界は、「創作」をする全ての人が作り上げた仮想空間です。
他者の創作に刺激を受けたり、共感したり、時に自分の知らない世界を覗き見られたり、
煩雑な現実世界からインナートリップできる
異空間です。
この仮想空間に、そこに集う人達の年齢、性別、環境、境遇、社会的地位などの個人的な背景は意味を持ちません。

何のしがらみもない、何の力関係もない、唯のヒトである自分が自分を楽しませることのできる場所。
それがわたしの仮想空間noteの有り方です。
それ以上でもそれ以下でもありません。










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