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手吹きガラス作家 横山秀樹

2014年8月下旬、例年より暑さが和らいでいたとはいえ、吹きガラスの工房は暑さが厳しいだろうと覚悟しつつ、福岡県飯塚市にある横山秀さんの工房を訪れた。手入れの行き届いた木々に囲まれた敷地内には、歴史を感じさせるしっくい壁と重厚な柱の自宅があり、その隣にツタに包まれた工房が佇んでいた。工房内の暑さを想像していたが、敷地内は驚くほど涼やかで、そのコントラストが印象的だった。

坩堝から漏れる光に照らされながらガラスと向き合う横山さん

横山さんは、医師の家庭に次男として生まれ、幼少期から図工や大工仕事に興味を持つ少年だった。誕生日には父親から本格的な大工道具を贈られたこともあり、その影響で職人技に対する関心が高まっていった。また、民芸が好きな母親とともに、小田や小石原などの民芸の里を訪れた経験が、横山さんの民芸への興味をさらに深めていった。

23歳の時、友人との旅で訪れた倉敷民芸館が、横山さんの運命を大きく変えた。そこで友人にガラスについて説明をしていたところ、館長の外村吉之介さんが「倉敷ガラス」の創始者である小谷真三さんの工房を紹介してくれたのだ。小谷さんの工房で目の当たりにした吹きガラス制作の魅力は、一瞬で形を作り上げるその早さと緊張感にあった。その後、横山さんは東京の民芸店で働きながら、小谷さんの工房に通い詰めたが、弟子入りを希望する者が多かったため、容易に弟子にはなれなかった。しかし、4年半にわたって通い続け、最終的に27歳で倉敷に移り住み、小谷さんの唯一の弟子となった。

横山さんの工房では、作業中の温度が常に40度を超えていた。特に、師匠に倣って使っていた自作の吹きざおは通常のものよりも短く、100度を超える窯に顔を近づける必要があり、非常に過酷な環境だった。手作りの窯には坩堝が二つ並び、左側は1350度、右側は1250度に設定されていた。横山さんは、ガラスの光や揺らめきを見ながら、感覚で温度やタイミングを判断していた。

彼の作品作りは、時にはたった一つの約束のために半日を費やすこともあった。
取材を申し入れた翌日に横山さんから電話があり、午前中の取材を夕方近くに変更してほしいとの連絡を受けた。前夜に火が落とされた窯にバーナーで火を入れ2~3時間後にようやく窯が赤く発光、さらに6~7時間かけて窯の温度を1300度前後まで上げた後、吹き作業が行われたと知ったのは、取材が終わった後のことだった。記事が掲載されてしばらくした頃、横山さんが私を訪ねてきて、手渡された箱の中には蒼い大小2個のグラスが入っていた。取材の際に吹かれていたグラスであり、この2個のために朝から窯に火入れをしていただいたものであった。

昨日夫人にその話をしたところ、「いつも個展に作品が間に合うかとヤキモキしていたが、好きな人や気に入った人には一個のために窯に火を入れていましたよ」との話を伺い、そのグラスを受け取ったとき、胸が熱くなった思いが再びよみがえった。

「ものづくりは遠回りのほうがいいんよ」と語った横山さんの言葉には、量産ではなく、唯一無二の作品を追求する職人としての哲学が込められていた。
残された作品群には横山さんが吹いた吐息が残っている。

両脇のふたつが文中にグラス。
以後毎回直筆の個展のご案内をいただき、
福岡市をはじめ熊本、京都と個展を拝見し集めたグラスたち。

本文は:西日本新聞2014年9月13日朝刊「情熱の磁場 筑豊の表現者たち」に寄稿した文章を修正して

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