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僕たちは観光客

10年前の今日、2012年3月11日(日)に僕は宮城県仙台市にいた。ちょうど東日本大地震の一年後の日に。

前日の3月10日の朝、大分県別府市をバスで出発し、陸路で宮城県仙台市を目指した。途中休憩や京都で一度同乗者を拾ったりなどして約24時間ほどかけて行ったと記憶している。

そもそもこの仙台行きの目的は、「支援物資を届ける」「東日本大地震の1周忌法要への参拝」「震災から1年後の状況を見てくる」が目的だった。行きのバスの中では初めてお会いする方々や、久しぶりに会う先輩達と色んな話をして盛り上がった。バスの中では何本もの映画も観た。ちなみに僕が観たいと言って流してもらった「ブラック・スワン」はバスの中ではとても不評だった。めちゃくちゃ面白かったのに。

途中休憩で寄ったサービスエリアで牛タン定食を見つけたが、牛タンを食べるなら仙台に着いてからがいいと言って違う定食を食べた。
九州育ちの僕は自分の背丈ほどまで積もっている雪を見るだけでもテンションが上がって、どこかワクワクしてしまう。そして東北に来たんだと実感をする。
ちなみにこの時のFacebookには
「雪だよー♪磐梯山だよー♪」
という投稿していた。

高速を降りるころには陽が登っていた。少しずつ一年前の地震のすごさを物語るブルーシートが目につく。この地で本当に大きな地震があったことを実感すると同時にバスの中での話し声が小さくなってくる。
さらに進み峠を越えて、バスの中の話し声はなくなった。たぶんそこには一年前街があったであろう。ただどんな街だったのかは全くわからなかった。わかったことは津波でこれだけの家が崩されて、一年後にも家が立ち並ぶことはないという現実。
バスから降りて少しその土地を歩いた。沢山の物が片付けられたであろうその土地にはまだまだ片付けられていない場所や物が沢山あった。もしかすると意図的に片付けなかったのか、片付けられなかったのか、片付けたくなかったのか。そこに住んでいたであろう人もその時には誰にも会わなかったし、とても情けないが正直会いたくなかった。

またバスに乗り仮説住宅の前や、埋め立て地の前を通った。最後に大川小学校に寄った。沢山の花が供えられていて、数名ほど手を合わせている方々がいらっしゃった。僕も献花台の前で手を合わせていると1人の男性が僕らに対して面と向かってではないが不満をあらわにした。

「こいつらはここを観光地か何かだと思って来ている」

もちろん僕らにそんなつもりはないが、まさしくその通りだと思うし、そんなつもりがないだけで道中の立ち居振る舞いなんてものは観光客のそのものだった。だから現地の人と会う心構えも何もできてなかったんだと思う。
その場にいた女性の方がその男性をなだめてくれたのも覚えている。その女性に「すみません。ありがとうございます。」とだけ伝えたのは覚えている。優しく声をかけてくれたのも覚えている。それでもその男性の言葉がずっと残っている。11年経った今でも残っている。あの男性は今も元気でいるだろうか。

バスに乗り帰路へとつく。仙台市内にある温泉により、お風呂あがりにみんなでご飯を食べた。もちろん牛タンを食べた。ビールも飲んだ。まさしく観光客の振る舞いだ。男性の言葉が心に残ってはいたけれども、美味しいものは美味しい。食事は誰とどこで食べるかで美味しさが変わると思う。文章を書いていると食べたくなってきた。

そこからまた約24時間かけて大分まで帰った。帰りのバスの中も映画をたくさん観た。でも一番印象に残っているのはどの映画でもなく、綾小路きみまろさんのDVDだった。当時まだ24だったが中高年のアイドルに共感することが出来たのはお坊さんだったからだと思う。

大分に帰り着きすぐに写真を現像しに行った。出来上がった写真を本堂に展示したり、法要の時に現地のことを報告させてもらった。行ってみてよかったと思った。

あれから10年。
それ以降まだ一度も東北の地を訪れていない。ただ10年の間に3回福島の子どもたちがホームステイに来た。今でも連絡を取りあってるし、いつも福島の美味しいものを送ってくれる。
関わりのある人が増えると、その人たちが住む場所にも思い入れが増える。
コロナがあけたらまず東北に行こうと思う。目的は確実に観光である。福島で子どもたちに会って、あの子たちのオススメの食べ物を一緒に食べたい。それが福島で一番美味しい食べ物になるはずだから。
仙台に行って、小さな居酒屋でカウンターで1人飲むのもしてみたい。もし話せるようならその地の人と話したい。観光客としてその街のことを教えてほしい。
コロナになって会いたい人が増えた。
多くの人に会う時間をたくさん作りたいと思う。
僕たちは観光客でいい。でもなるべく人は傷つけたくはない。

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