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冥福を祈れない

学生の創作で
おもしろいシーンがあった。

着想自体は
他愛ない、いわゆる「セカイ系」だが
「もし、誰かほかの人が死ぬことで死ななくてすむなら誰に死んでほしい?」
という問いに
「いまぶつかったおっさん」
とこたえる。

私がずっと考えていたことを
あらためて別の表現にしてくれたようで
とてもうれしく
また、リアリティーがあるだけ
かなしくもあった。
 
大災害があったとき
被災者は大学の授業料が免除になったり
国から補償金が出たりする。
式典があったり、慰霊碑が立ったりする。
生命が平等であるなら
死にかたもまた平等であり
日々、急病や事故で
不条理な死をとげる人がいるなかで
なぜ、特別の死があるのか。

1人の死より
100万人の死のほうが重大であることは分かる。

「特別の死」はあるのだ。
しかし
われわれが問題にするのは
(「問題にする」ふりをするのではなく)
常に「1人の死」であり
それは
恋人であるかもしれないし
家族であるかもしれないし
同級生かもしれないし
大好きなミュージシャンかもしれないが
「100万人」の「ぶつかったおっさん」ではない。

「ぶつかったおっさん」も
誰かにとっての「1人」なのだが
それは分かるが
どうしても
私の「1人」ではない。

その「1人」に対してさえ
われわれは
語ることができない。
「おはようございます」「いただきます」「おつかれさまでした」
のように
「冥福を祈ります」
と言ってしまう。
死後の生命を信じているわけでもないのに。

だとすると
誰に言っているのだろう。
生きている、それを聞くことができる人間に対し
なぜ聞かせなければならないのか。
納得するこたえを出せない。

 五年以上前になります、突然、後輩の女の子が亡くなったというメールが届きました。彼女は、まだ二十代の前半だったでしょう、くわしいことが聞きたいものは連絡を、とあったので、それを知らせてくれた別の後輩に、電話をかけました。しばらくして電話がつながり、死んだときの模様などを聞くことができました。ぼくは、そこで、後輩に言いました、
「とてもいい子だったから、神さまに気に入られて、早くお召しになったんだろうね」
 というような意味のことです。なにか、そういう言いまわしを本で読んだのでしょうか、しゃれたことを言ってみたかったのでしょうか、ぼくは、たしかに得意だったようです。しかし、電話を切ったあと、とても後悔しました。いま思えば、文学的でも詩的でもない、このつまらない発言によってひとりの死を侮辱してしまったのです。
 あの虚無感。なにかを言い表したようで、しかし、なにひとつ語ってはいない。嘘のことばは、とても「それらしい」顔をしていますが、けっして「それ」ではない。口を開くと、「それらしい」ことばが溢れ出るのを、とめることができません。「沈黙は金」。ぼくは、なにか事件があるたびに、どうしても「それらしい」ことを言いたい気持ちになりますが、なにも言うまい、沈黙を守っていようと決めました。地震も、原発も、人の死も、嘘を言うくらいならだまっているほうがましです。なにか言ってやった、という満足感は危険だと思いました。からっぽのことばで、人の死を、それらしく語り去ってしまったときの、あの気分は二度と味わいたくありません。
「なんだか、あまりにも、すれていないというか。この世で生きていくのは、ああいう人にはむずかしかったんだろうと思います。そう」
 と、康平はひと息つき、
「だから神さまにすごく愛されて、それだけ、早く手もとに召されたんじゃないでしょうか。そんな人でした」
 ふと、周囲の気配が遠くなった。広い空き地にぽつんと取り残されたような感じがした。外の蝉の鳴き声だけが、変に耳もと近く聞こえた。
 顔から血の気が引いた。いま、自分はなにを言ったのか。顔を上げて、保と真奈美の目を見ることができなかった。
 気休めにもならない、きれいで口あたりがいいだけの言葉だった。その気持ちに、うそはなかった。しかし、本当の言葉ではなかった。言ってしまったあとは、自分の気持ちでさえなくなった。むなしかった。きれいなだけの、空虚な言葉だった。

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