なぜ、子どものスポーツを見ていると力が入るのかを読んで

谷口氏の書物を読みました。
https://honto.jp/netstore/pd-book_30335027.html


とても分かりやすい切り口で一気に読める著作だ。

当事者である氏が実体験をもとに自らに語りかけるように論考は進んでいく。

タイトルの子供のというのは、正確に言えば自分の子供のということだ。

自分の子供のスポーツを見ている時に、親が力が入るのはある意味当然と言える。そこには期待が入るからだ。

しかし問題はその先にあり、氏が記述しているようにそのことを子供にどう表現するかだ。

自分の子供が期待通りのスポーツプレイをしなかった場合、親は怒りに任せて怒っていいのか?

谷口氏は24時間ルールや家庭の理念などを取り入れ、その怒りの発露を冷静に論理的に子供に伝えるべきであるとしている。

アンガーマネージメントを通じて車の中での密室での子供の対話も修正すべきであると思考しているようだ。

タイトルの理想としては、自分の子供のスポーツで期待通りのプレイをしないとき親はどう振る舞うべきか?が適切ではないだろうか?

本を手に取るときは、読者は何らかの問題解決を望んでいる場合が多い。

競争社会であり、自分の子供に期待をかけ、熱いあまりにそのミスに激しく叱咤してしまう、それあることだろう、でもそれにより子供が萎縮し次のプレイに影響を及ぼしたり、親の顔色を伺い本来ののびのびとしたスポーツプレイに悪影響を及ぼすとしたらマイナスである。

問題なのは、親のアンガーマネジメントなのではないかと思った。

だからそのポイントが、親の怒りの発露のマネージメントではなく、題名という本の売れ行きを左右するタイトルが示すように、親が力を入れる我が子のプレイという、もっともある意味当然なエゴに向けられらたのはなぜだろうか?と考えてしまった。

エゴは捨てられない、それをどう扱うのか、心の闇は捨てられない、どうマネージメントすべきなのか、それがタイトルに出ていないと、読者を獲得するという裾野が広がらないのではないか。

確かに、谷口氏が示したタイトルは根元的である。

しかし、それは自明であるともいえる。

スポーツライターとして数々のスポーツを見てきた氏が、自分の子供となると、おちおち座って我が子のプレイを見ていられない、というのはある意味人間的であり、根元的なものがある。

我が子というのは唯一無二であり、論理を越えたものがあるし、感情の発露も他人には説明できないものもある。

論理がすべてではないし
言語で言い尽くされない、非言語も重要である。

スポーツを見ているときの脳の状態も確かに大事である。解明できるもの、解明できないものそれもある。

スポーツに関するエビデンスを収集し、それを当てはめ、親の根元的なアンガーマネジメントが可能か、否か、それは難しいのであろう。人間のすべてが解明できることはないのであろうから。


とするなら、もっと素直に、親が子供に怒りを期待のあまりにぶつけてしまうのは修正できないのではないかというニヒリズムのその先の展望、ここが読みたかったきがする。

それを改めて考えさせられた書物であり、秀作であったとはいえる。

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