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四国巡礼日記14~経済学者、お遍路をゆく《春》~

同宿した二人は桂浜に寄るらしく、朝食の後、「お気をつけて」というあいさつを交わすと身支度を整えて宿を出ていった。それに対し、私が今日たどるルートは渡し舟を利用する、歩き遍路の定番ルートである。

宿から種崎渡船場までは二十分ほどの距離だった。ここから県営渡船「龍馬」に乗って浦戸湾を横切るのだが、この渡し船は遍路道でもある県道二百七十八号線の一部という扱いになっており、歩き遍路が公式に利用する唯一の乗り物なのである。県道、つまり一般道のため料金はもちろんかからない。渡し舟の利用者はお遍路さんに限らず、地元の人も通勤通学その他に橋の代わりとして利用する。早朝は二十分に一便の割合で運行されており、さほど待つでもなく、種崎渡船場に接舷した「龍馬」からは対岸から乗った原付バイクや自転車が勢いよく飛び出してきた。

船が動き出すとガソリンのにおいが辺りにただよってきて、私はタイのバンコクで乗った渡し舟を思い出した。バンコクを流れるチャオプラヤ川の渡船も庶民の足として使われていたのだった。

対岸の梶ヶ浦渡船場で渡し船を降りると道が二手に分かれている。どちらへ行けばよいのか悩んでいると、乗船員のおじさんが背後から「まっすぐ、まっすぐ」と大声で助け舟を出してくれた。その教えの通りにまっすぐに歩いて商店街を抜けると、ほどなく前方に三十三番札所番雪蹊寺が見えてきた。雪蹊寺の山門の真正面には民宿があり、予め知っていたらここに泊まるのも一案だったな、と思った。

雪蹊寺の本堂。この右奥に長宗我部信親の墓がある。

南国にあるお寺の名前にどうして「雪」の字が入っているのかと不思議だったが、雪蹊とは長宗我部元親の法号であるらしい。名前の美しさに比べると、雪蹊寺の境内は平凡だ。それよりも、隣接する秦神社の方がよほど私の目を引いた。境内には鉄棒と滑り台が備わり、まるで児童公園を思わせるような造りである。

それでも雪蹊寺の境内を一通りぐるりと回り、本堂と大師堂をつなぐ渡り廊下の床下を、腰をかがめてくぐり抜けた先にある長宗我部信親の墓は見てよかったと思った。墓そのものは特別な代物ではないが、雪蹊寺が長宗我部家の菩提寺であることを実感することができる。四国統一を目論んだ長宗我部信親は十年に及ぶ戦乱を起こした。天正の兵火として知られるこの戦乱で、徳島・愛媛・香川の多くの寺院は焼き払われてしまったが、悪名高き信親も、おひざ元の高知では寺院を厚く保護したのである。

雪蹊寺から次の種間寺までの道は明快だった。自動車用と歩き遍路用の表示が並んでいるおかげで、道を間違わずに歩いてゆける。歩き遍路向けの遍路道は車道よりも距離が短いことが多いが、その代わりに山道を歩かされることもしばしばある。しかし、今回はそのようなトレードオフに直面することもなく、山沿いの平らな道がひたすら続いていた。

山には葉緑樹に混じって山桜がぽつりぽつりと咲き、眺めが美しかった。一言でピンクと言っても色がまちまちなのは桜の種類が違うからなのだろうか。

先へ進むと道路に面した畑の向こう側に種間寺の姿が見えてきた。その昔、弘法大師が米や麦などの種を境内に蒔き、そのため寺の名前が種間寺になったのだという。たぶん、境内だけでなく、お寺の周りの土地もその時に開墾したのだろう。千年以上も前の景色が目の前の田園風景に続いているのだと考えると、悠久の歴史を肌で感じ取ることができる。

畑の奥に見えるのが種間寺。

道沿いに建つ山門はさほど珍しくないが、三十四番札所種間寺には仁王門がないだけでなく、道路との段差がなく地続きになっている。そのため、私には境内の内外の境目があいまいに感じられ、不思議な開放感を覚えた。

種間寺の入り口。道路と地続きになっている。

種間寺の平坦で開放的な境内でお参りを済ませ、その足で次の清瀧寺へ向かう。「清瀧寺十一・四キロ」の標識に従って歩き始めるとすぐに、近くで農作業をしていた男性から声を掛けられた。

「にいちゃん、清瀧寺はこっちじゃないで。これは車用や」

どうやら歩き遍路用の標識を見落としていたらしい。

「こっちは遠回りやき。30分は違う」

助かった、三十分も余計に歩く愚は避けたい。男性にお礼を述べて再び遍路道を歩き出した。

種間寺までの道中を歩きながら、私は今日でお遍路を区切ることに決めていた。いったん心にそう決めると集中力の見えない糸がぷつりと切れてしまったらしく、歩くことが急に苦痛に感じられてきた。次の札所までの距離として十キロはさほど離れているということもないのだが、今はその十キロという数字に嫌気が差している。次の清瀧寺が今回の最後の札所となるかもしれない。

土佐市街を抜けると清瀧寺と青龍寺への道標が並んでいた。地図上では県道をまっすぐに進めばよいのだが、実際の遍路道は田んぼの中を通り、その先はやや急な登り坂が待っていた。今までにも何度かあったパターンだが、これに慣れることは決してなさそうだ。

天井に龍がいる三十五番札所清瀧寺の山門を抜け、その先に続く長い階段を登ってようやく境内に足を踏み入れた。それでも、境内に着けば相応のご褒美と言うべきか、土佐市街を一望できる眺めを楽しむことができた。寺院が建つ小高い丘の上には時々微風が吹き、ようやく肩の力が抜けた。

35番清瀧寺。山門をくぐり抜けた後も階段が続く。

弘法大師が金剛杖で岩を突くと綺麗な湧水が出た――清瀧寺の名前はこの伝承に由来する。清瀧寺に限らず、水に関する弘法大師の挿話は多い。井戸寺もそうだ。杖を突いて水が出るのは伝説に過ぎないだろうが、弘法大師が治水事業と深く関わった人物なのは間違いないだろう。種間寺の種蒔きにしても、穀物を育てるには灌漑が欠かせない。やはり弘法大師と水との間には密接な関係がありそうだ。

35番清瀧寺の仁王門の天井には龍がいる、36番青龍寺ではない。

お参りを済ませ、時計を見ると午後一時を少し回っていた。どうしよう、やっぱり次の青龍寺まで行ってみようか。清瀧寺から青龍寺までは十五キロほどの距離だが、その間には峠を二つ越えなければならない。たぶん、納経所が閉まる午後五時までにお参りを済ませるのは無理だ。それなら、打ち終えたばかりの清瀧寺で今回のお遍路を区切れば、文字通り、区切りが良い。

登ってきた遍路道を今度は小走りに降りていく。どのみち、青龍寺に向かうのにもこの坂を下るのは同じだ。田んぼ道を抜け、国道五十六号線を渡った。

近くを歩いていたおばあさんに最寄りの電車駅を尋ねたが、この辺りに電車は走っていないそうだ。

「その先にバス停があるよ。ドラゴンに乗れば伊野駅まで二百円で行けるから」

おばあさんにお礼を言い、バス停で時刻表を確かめると、十分後にちょうどドラゴンという名の循環バスが来る。これはタイミングが良い。

水色の小型バスは二分ほど遅れてやってきた。バスに乗り込む時、私の中でふいに不思議な感情が沸き起こった。安堵でもなく、解放感とも違う。この感情はほんの一瞬で消え、次には頭の中に言葉がはっきりと浮かんだ。「明日からはもう、歩かずに済むのだな」

《今日歩いた距離22.0km》
宿〜33番雪蹊寺2.8km
33番雪蹊寺〜34番種間寺6.5km
34番種間寺〜35番清瀧寺9.8km
35番清瀧寺〜高岡高校通バス停2.9km

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