新幹線とインターネットとそれぞれの時代。

コンテンツはメディアよりも寿命が長い。コンテンツをどう流布させるかも大切だけど、せっかく note や KDP があるのなら、作者はまず良いコンテンツを作るべき。
自分は note や KDP があるから、WordPress を使うのをあっさり止めてしまった。止められるほどのコンテンツしかなかった、と言ってしまえばそれまでですけどね。

note や KDP がある時代に、雑誌の存在は微妙だ。雑誌の存在理由にはコンテンツの発表と流布、著者・読者・編集者のコミュニティ作りとコミュニケーションがある。
ところが、インターネットが登場して、この雑誌の役割の大半はネットで代用できるようになった。いやいや、実はコンテンツだってそうなのだ、と言いたいのだけど、まだ自分も頭でわかったつもりでいるだけで、実際にそんなコンテンツをどうしていいのかわからないので、今はまだそこまでは言わない。

だって、それじゃ、自分がわざわざコンテンツを本の形にする電子書籍や縦書きにこだわる理由は何なの、ということになってしまうではないですか。それを言っちゃあ、おしまいよってこと。

実のところは、まだよくわからない。でも、本の電子版にこだわるようになってから、もはやデジタル至上主義でなくなってしまいました。

だから、活字のコンテンツにこだわる人たちが雑誌やグループにこだわるのもわからないでもないけれど、少なくともインターネットは、コンテンツをダイレクトに読者に届けてしまうんだよね。読者にコンテンツの意味がわからなくても届いてしまう。

せっかく作ったコンテンツだから、せめて読んでくれる人には、リボンの1つでも付けて届けたいと思うじゃありませんか。それはインターネットでも同じだから、そこをわかってもらうように、メールやらウェブやらブログやら、いろいろな段階のシステムが生まれてきて、存在しているわけなのだけど。

ただ、その両端には、書き手と読み手がいるというのは、デジタルでもネットでも何ら変わらない。

そんなことを考えていたら、今春から開業する北陸新幹線にようやく思い当たった。そうか、その前の上越新幹線が開通した時には、インターネットはまだ存在してなかった。

時代は高速道路、新幹線誘致の時代で、海の向こうは情報スーパーハイウェイ構想前夜だった。そして、情報スーパーハイウェイとは異なる場所からインターネットが誕生した。そのインターネットも誕生して30年も経つとさまざまに変容してしまい、結局今のインターネットは、愛と欲望の情報スーパーハイウェイに近いかもしれない。

当時、コンテンツは人が手渡しだったし、手に持って新幹線で移動していた。数年前自分が自炊した時、今更こんな本必要なのか、と思った蔵書のほとんどはそんな時代のものだった。そんな時代に第三者郵便などで届いた雑誌や本とは別に宅配便もあった。そこから大量に本や物を流通させる物流システムはどんどん整備され、書籍に関していえば、取次の配本システムなどは悪名を呟かれるようになって、次第に本が売れなくなった。そんな中で本屋大賞が生まれたりもした。今じゃ、本屋大賞も立派な権威だ。

当時と今の大きな違いは、インターネットが存在しなかったので、物流システムに乗る形で印刷物が伝達手段として大きな力を持っていたところ。噂や嘘もたくさんあったが、真偽のほどがわかるまでは噂は噂でしかなかった。
そんな中、テレビも伝達手段として力があったが、映像の力は絶大な反面、活字を伝えるのが苦手だった。
だって、テレビの字幕がギザギザでなくなるハイビジョン放送が始まるのは、さらに20年後になる。当時はようやくβとVHSの勝負がついたくらい。それが上越・東北新幹線が開通した30年前の時代だった。

ところが、これから開通する北陸新幹線の時代は、既にインターネットが存在している。インターネットがどのように社会を変えたかについては、もうここに書くまでもないほど、私たちはそれが存在しなかった時代さえも忘れているかもしれない。

上越新幹線が通る前と後で、自分が辛うじて感じ得たのは、距離の喪失感、それととたとえ座っているだけであっても、移動することで人の体は疲労するんだということ。
田舎の風景はどんどん嘘っぽくなっていった。ビデオカメラは高品質になり、写真がデジタルになって高解像度になっても、記憶にある風景は失われていく一方だった。

インターネットは、新幹線以上に世界を小さくなったような気にさせる。それでもネットがあるから人が動かなくなる、物が流れなくなるということは決してなく(当たり前なんだけど)、今のAmazonのある生活を考えてみれば、新しい新幹線の開通で、むしろ以前よりも人や物の動きは活発になるはず。

ただし、もはや物はインターネットの情報の後を追うことになるのは、現状を見たら明白。上越新幹線がそうなっていったように、北陸新幹線は最初からそうなるんだと思う。

そんな情報が先に進んでいく時代。それを嘘っぽく捉えるか、その中から新しいリアルを見つけるかは、やり方次第だと思う。
未来のことは誰にもわからないけれど、とにかく変わっていくんだから、そもそもが前人未踏なんだから、トライ・アンド・エラーが必至だと思う。だめだった時こそ参考になるわけで、失敗した時の対処が肝心。これはコンサルタントを名乗っている人たちも同じだと思う。新幹線でも電子書籍でも。

残酷といえば、ものすごく残酷な時代が来ている。だから、一人では不安で、誰かを頼ったりしたくなるのもわからないではない。でも、私たちは新しいシステムに慣れていくか、もっと使いやすいシステムを構築していくか選んでいくしかないんだよね。

だから、自分はnote や KDP を使っているんだった。1人の人間のできることなんてたかがしれているけど、他人任せではなく、自分でやっているからわかることも多い。

自分が新幹線の反対側にいた頃、編集者になりたいなって思わせた、雑誌もそんなシステムだったんだよね。

今や物流と雑誌が切り離されて来て、それこそがネット時代だと思うけど、情報しか伝えられなくなったら、雑誌でなくてもよいってことになる。掲示板やブログみたいな無人のウェブシステムでいい。

コンテンツなくして、ペンクラブみたいなものを作ってももう仕方ないと思う。それは、システムがなかった時代の話。その当時でも、コンテンツや看板のない組織は、自分たちのシステムを運用できずに、ただ群れていたとしかいえなかっったはず。

note や KDPを使いこなした人たちが次のシステムを目指しているのならわからないでもないけれど。そういうノウハウを無償で提供されるとは思わないし、だから会費があるのだろうけど。ノウハウを自負しているのなら、既にシステムができているということなんだけどね。

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