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1.1 iPadは大きいだけのiPhoneではなかった。

iPadが登場した時、最初は大きなiPhoneといわれました。ところが実際にiPadを使ってみると、決してそんなことはありませんでした。iPhoneを使っていた自分の予想とはかなり違ったiPad体験でしたが、それでもノートパソコンを持ち歩くよりはましだと思い、タブレットを毎日持ち歩いて使いました。
使っているうちに、タブレットを「ポストPC」時代などという上手い言葉に乗せられて、パソコンの代わりに使おうとすると、いろいろと苦労をしなければならないことを知りました。いや、ホント。今はポストPCとは一体何のことだったのかと、言葉のひとり歩きを実感しています。

多くのタブレットは、今スマートフォンといっしょに、携帯電話ショップなどで販売されています。スマートフォンなら画面サイズは5インチ(1インチは25.4ミリメートル)前後ですが、タブレットならもっと大きな7インチ、10インチの画面で、といった感じで店先などでは案内されています。

つまり、店頭で案内されているのは、タブレットは大きめのスマートフォンに過ぎず、画面サイズが異なるだけで、どちらも同じラインアップに並ぶ製品だということですが、私はやはり誰かにお尋ねしたいのです。本当にそうなのでしょうか。

iPadの操作方法はiPhoneと同様に、タップやスワイプ、ピンチで使うことができます。どれもiPhoneが登場してから普及した、指を使って直接画面上をタッチする操作方法です。iPhoneが普及したので、同様の操作を用意すれば、誰も迷わず操作ができる、そうアップル社は考えたに違いありません。だから、最初は大きなiPhoneで済ませたのです。ただ、指を使って画面上をタッチするという操作では、iPadの大きな画面を私は持て余してしまう気がして仕方ありません。

たしかにiPadの大きな画面には、iPhoneになかった開放感があり、バッテリー駆動、無線通信といったワイヤレスの製品構成、当時としては本当に薄かった本体は、iPhone以上にどこへでも持ち運びができる新しい電子文具を、人類はついに手に入れることができたのかとまで思ったりもしました。

そもそも、iPadはその大きさそのものにiPhoneになかった存在感があり、特別なアプリを動かさなくても、手書きでメモを書いて筆談するだけでも、これまでの電子機器を楽々と超えてしまった感じがありました。iPhoneに続いて、iPadが登場して、当時はそんな雰囲気でした。そんな雰囲気を思い出すたびに、あの熱狂ぶりは何だったのだろうと、懐かしく思ったりしますが、たしかにあの時にタブレットというものが誕生し、手を伸ばせば、その未来に誰もが手が届くような期待に満ち溢れていました。

それでも私はiPadを使い始めた当初から、やはりどうにもしっくり来ないところがあり、それは今も続いています。まだまだ違和感があります。誤解を恐れずにいえば、iPadは当時の技術を使って「電子の紙」というものを、それはひとときの錯覚であったとしても具現化していたのではなかったか。

これまでも電子の紙を思い浮かばせる製品はいくつかありました。何よりもパソコンの技術を集約して、新たな技術革新を形にしたiPhone自体もそんな製品の1つだと思うのですが、いかにも小さすぎた感があります。そんな時に、手を伸ばせば届くところに現れた新しい電子の紙がiPadだったといえます。

電子の紙といえば、同じ時期にAmazonが電子書籍の普及に向けて製品化したKndleと呼ばれる電子書籍リーダーとiPadはよく比較されます。Kndleは電子書籍を流通させるべく、電子書籍を印刷する白黒インクの電子の紙でした。一方のiPadは利用者が手書きで自由に書き込める電子の紙であり、写真を撮ったり音声を録音することができました。

KindleとiPadでは値段も違ったということもあり、その値段からもiPadには紙以上のパソコンの代用品としての役割が求められ、それがiPadだけでなく、パソコンの後継者と目され始めたタブレットの運命ではなかったのかと思います。

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