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🌙神々の謡〜知里幞恵の自ら歌った謡🌙


1922幎倧正11幎9月18日
知里幞恵ちりゆきえさんは心䞍党で急逝したした。
19歳ずいう若さでした。

知里幞恵さんに出䌚い、
魂を揺さぶれお
圌女のこずを䌝えたいず
䞀人芝居をしおいる
舞銙さんの公挔が
呜日である9月18日
幞恵さんの所瞁の地、本郷の
聖テモテ教䌚で行われたした。



舞銙【圹者・脚本家・挔出家】
2004幎劇団ムシカ玩具を旗揚げ。
すべおの䜜品に䜜・挔出を手がける。
䜕䜜かのプロデュヌス公挔を経お2007幎より「䞭原䞭也」「金子みすゞ」「宮沢賢治」の詩人の生ず死を詩を描いた䞀人芝居䜜家評䌝䞉郚䜜をスタヌト。すべおの登堎人物を挔じ分け、䌚話による䞀人芝居ずいう独自のメ゜ッドを生み出し奜評を博す。
2009幎からは「アむヌ神謡集」の著者知里幞恵の生涯を描いた『神々の謡」の䞀人芝居を東京・北海道各地にお毎幎連続䞊挔。
2017幎には「神々の謡」を原案にした小孊通たんが人物通「知里幞恵をアむヌ」が出版。
2012幎からはNPO法人犬猫みなしご救揎隊ず共に、犏島第䞀原発の事故により眮き去りにされおしたった動物たちを描いた『眮き去りにされた呜』を、2015幎からは、犬猫の珟状を䌝える『キミの手のなかの呜』を各地で䞊挔、動物たちの声を䌝えおいる。
珟圚は長野県阿智村を拠点に、村民ず共に村民劇プロゞェクトを立ち䞊げ、村の歎史である“満蒙開拓“をテヌマに創䜜・䞊挔をしおいる。


いわさききょうこ【ボヌカル・ギタヌ・ピアノ】
東京は䞋町生たれ育ちの旅人シンガヌ゜ングラむタヌ。2020幎たでに、60幎、70幎代のカバヌアルバムを含む8枚のアルバムを制䜜。
2021幎には3幎ぶりずなるフルアルバム『かっぱが飛んだ空』初の2枚組Live アルバム『Live in the Garage 2021』をリリヌス。舞銙䞀人芝居での舞台音楜をはじめ、映画音楜、CM音楜制䜜なども粟力的に行う。2013幎より党囜接々浊々ぞ、幎間150本皋床のツアヌを開始。短線映画『Bird Woman』倧原ずき緒監督に Black Bird圹にお出挔。劇䞭歌ずしお『青空でなくおかたわない」を曞き䞋ろし、匟き語りした。




アむヌずしお生たたが故に
非凡な胜力を持ちながらも
高等教育を受けるこずもできず
日本人からは差別をうけ

キリスト教の信仰を持ったがゆえに
アむヌからも差別をうけたした。

17歳で職業孊校を卒業した幞恵は
蚀語孊者金田䞀京助の勧めで
文字のないアむヌの蚀葉で語られる
ナカラを初めおノヌトに曞き綎りたした。

幞恵は生たれ぀き心臓に病を持っおいたしが、䞊京。
金田䞀家に䜏み蟌んで、
原皿を執筆したした。

最終原皿の確認を終えた倜、
心臓発䜜を起こしお、倩に召されたした。

圌女が呜をかけお䜜り䞊げた
「アむヌ神謡集」は翌幎8月10日に刊行されたした。

池柀倏暹さんはこう語っおいたす。

幞恵が蚀いたかったのは、自分は特殊でなく普遍であるずいうこずだ。自分は䞀぀の圹割を䞎えられたアむヌの䞀人に過ぎない。たた、アむヌの知恵もこの民族のみに関わる特殊なものでなく、自然の前で生きる人間すべおが共有する普遍のものである。

小孊通たんが人物通「知里幞恵をアむヌ」解説「個人から神話ぞヌ入口ずしおの知里幞恵」より




アむヌ神謡集
知里幞惠線蚳



            序

 その昔この広い北海道は私たちの先祖の自由の倩地でありたした倩真爛挫な皚児の様に矎しい倧自然に抱擁されおのんびりず楜しく生掻しおいた圌等は真に自然の寵児なんずいう幞犏な人だちであったでしょう
 冬の陞には林野をおおう深雪を蹎っお倩地を凍らす寒気を物ずもせず山又山をふみ越えお熊を狩り倏の海には涌颚泳ぐみどりの波癜い鎎の歌を友に朚の葉の様な小舟を浮べおひねもす魚を持り花咲く春は軟らかな陜の光を济びお氞久に囀さえ
ずる小鳥ず共に歌い暮しお蕗ふきずり蓬よもぎ摘み
玅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけお
宵たで鮭ずる篝かがり
も消え谷間に友呌ぶ鹿の音を倖に円たどかな月に倢を結ぶ
嗚呌なんずいう楜しい生掻でしょう平和の境それも今は昔倢は砎れお幟十幎この地は急速な倉転をなし山野は村に村は町にず次第々々に開けおゆく
 倪叀ながらの自然の姿も䜕時の間にか圱薄れお野蟺に山蟺に嬉々ずしお暮しおいた倚くの民の行方も亊いずこ僅かに残る私たち同族は進みゆく䞖のさたにただ驚きの県をみはるばかりしかもその県からは䞀挙䞀動宗教的感念に支配されおいた昔の人の矎しい魂の茝きは倱われお䞍安に充ち䞍平に燃え鈍りくらんで行手も芋わかずよその埡慈悲にすがらねばならぬあさたしい姿おお亡びゆくもの  それは今の私たちの名なんずいう悲しい名前を私たちは持っおいるのでしょう
 その昔幞犏な私たちの先祖は自分のこの郷土が末にこうした惚めなありさたに倉ろうなどずは露ほども想像し埗なかったのでありたしょう
 時は絶えず流れる䞖は限りなく進展しおゆく激しい競争堎裡に敗残の醜をさらしおいる今の私たちの䞭からもい぀かは二人䞉人でも匷いものが出お来たら進みゆく䞖ず歩をならべる日もやがおは来たしょうそれはほんずうに私たちの切なる望み明暮
あけくれ
祈っおいる事で埡座いたす
 けれど  愛する私たちの先祖が起䌏す日頃互いに意を通ずる為に甚いた倚くの蚀語蚀い叀し残し䌝えた倚くの矎しい蚀葉それらのものもみんな果敢なく亡びゆく匱きものず共に消倱せおしたうのでしょうかおおそれはあたりにいたたしい名残惜しい事で埡座いたす
 アむヌに生れアむヌ語の䞭に生いたった私は雚の宵雪の倜暇ある毎に打集っお私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の䞭極く小さな話の䞀぀二぀を拙ない筆に曞連ねたした
 私たちを知っお䞋さる倚くの方に読んでいただく事が出来たすならば私は私たちの同族祖先ず共にほんずうに無限の喜び無䞊の幞犏に存じたす

  倧正十䞀幎䞉月䞀日

知里幞惠
改ペヌゞ

      AEKIRUSHI

Kamuichikap kamui yaieyukar, “Shirokanipe ranran pishkan”
Chironnup yaieyukar, “Towa towa to”
Chironnup yaieyukar, “Haikunterke Haikoshitemturi”
Isepo yaieyukar, “Sampaya terke”
Nitatorunpe yaieyukar, “Harit kunna”
Pon Horkeukamui yaieyukar, “Hotenao”
Kamuichikap Kamui yaieyukar, “Konkuwa”
Repun Kamui yaieyukar, “Atuika tomatomaki kuntuteashi hm hm!”
Terkepi yaieyukar, “Tororo hanrok hanrok!”
Pon Okikirmui yaieyukar, “Kutnisa kutunkutun”
Pon Okikirmui yaieyukar, “Tanota hurehure”
Esaman yaieyukar, “Kappa reureu kappa”
Pipa yaieyukar, “Tonupeka ranran”

青空文庫より


いわさききょうこさんず舞銙さん






私はアむヌのこずをほずんど知りたせんでした。

明治時代、政府はアむヌ人を日本人に取り蟌もうずしたした。
「同化政策」ずしお、アむヌの䌝統である狩猟採集の生掻を
蟲業䞭心に眮き換え、名前も和人颚に改名させたり、
刺青などの颚習も根こそぎ犁止し、
蚀葉を奪いたした。

日本語で教育もしたしたから、アむヌ語を話せる人は激枛したした。
知里幞恵さんは倧切なアむヌの蚀葉を埌䞖に䌝えるために
呜を削るようにしお「アむヌ神謡集」の刊行をしたした。

アむヌの歎史を知るず、
これは過去の出来事ではないず気付きたす。

差別はい぀でも、どこでも、存圚したす。
人は自分ず違うものを排陀しようずするのは
怖いからなのかもしれたせん。

もし、少しばかりの想像力があったら、
お互いを理解するこずはできなくおも
存圚を吊定するこずもないのではないかず思いたす。


幞恵さんの䜏んでいた頃の
本郷を想像しながら
倏の名残の西日を受けお
聖テモテ教䌚から
南北線東倧前駅たで
歩いお垰りたした。



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