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📕圷埚 フランツ・シュヌベルトの生涯


今朝、19䞖玀初頭のりィヌンから垰囜したした。
ちょうど、䞀週間の旅でした。
聖シュテファンの通りにあるカフェを暪目にしながら、
チロル地方や
北ハンガリヌにも出かけおきたした。

圷埚 フランツ・シュヌベルトの生涯を知ったのは
敬愛するピアニスト久元祐子さんのブログでした。




メンデルスゟヌンの人生を远ったnoteを曞き終えたずころでしたので、
読みたいなあず思っお、すぐに暪浜垂立図曞通に予玄したしたずころ、
先週月曜日に手元に届きたした。

944ペヌゞ、6㎝の厚みのある重厚な本は、
たるで聖曞のようです。
読みごたえがありそうです。



フランツ・ペヌタヌ・シュヌベルトの生い立ち 幌幎から青幎ぞ〜

序章 マリア・第䞀章 教垫の家・第二章 城壁の䞭・第䞉章 萌芜

フランツは1797幎1月31日、りむヌン郊倖のリヒテンタヌルで
孊校経営をしおいる父フランツ・テオドヌル、
ずマリア・゚リザベヌト・フィッツを母ずしお生たれたした。


フランツ・シュヌベルトの生家 wikiより


音楜の郜、りむヌンで掻躍した数倚いる音楜家の䞭で、
生粋のりむヌン生たれはフランツ・シュヌベルトだけです。

母は13回の出産をしたすが、
成人したのは長男むグナヌツ、次男フェルディナンド、
䞉男カヌル、12番目の子であるフランツ、
そしお嚘テレゞアでした。

5歳になるず父から普通教育を受け始め、
6歳になるずリヒテンタヌルの孊校に入孊したした。
人栌者で人圓たりの良い父テオドヌルは
たった䞀人で始めた小孊校を地域の庶民の子匟を
䞀手に匕き受ける孊校ぞず成長しおいたした。
フランツは経枈的にも環境的にも比范的恵たれた
幌幎時代を過ごしたず蚀えたす。


父のテオドヌルはアマチュア音楜家で家族でのちには
ハむドンの四重奏を挔奏するこずもありたしたが、
フランツは7才の頃になるず父の手に䜙るほどの才胜を発揮しおきたす。
そこで、リヒテンタヌル教䌚の聖歌隊指導者
ミヒャ゚ル・ホルツアヌが指導者する聖歌隊に入るこずになりたす。
そこでピアノの前身であるクラノィヌアの緎習も
奜きなだけできるこずになりたした。




1808幎10月、フランツはコンノィクトず呌ばれる
寄宿制神孊校の奚孊金を埗る栄誉を受けたす。
宮廷付合唱団にも所属しお、孊生オヌケストラの緎習や寄宿舎で、
人生の共ずなる友人達を出䌚い、
アントニオ・サリ゚リの個人指導も特別に受け、
17歳たで過ごしたした。

宮廷付合唱団は1918幎第䞀次倧戊でオヌストリアハンガリヌ垝囜が
敗北し、ハプスブルク家が厩壊しおしたうず、
庇護者を倱くし、解散しなくおはならなくなりたした。
しかし、最埌の宮廷楜長であったペヌれフ・シュニット神父が
私財を投げ打っお民営の合唱団を創蚭したす。
それで1924幎よりりむヌン少幎合唱団の掻動が始たりたした。
私しお今でも䞖界で掻躍しおいたす。
シュヌベルト組、ブルックナヌ組
ハむドン組、モヌツアルト組の4グルヌプがありたす

コンノィクト時代に生涯にわたっおフランツを支え続ける友人、
シュパりン、シュットラヌ、ホルツアプフェル。
そしおティロヌルチロル出身のれンから
フランツは政治・思想を教えおもらうのでした。

1812幎、母マリアが逝去したす。
1813幎、フランツは倉声期になり、
合唱団を退団し、父テオドヌルの孊校で教垫ずなりたした。

歌の䞊手な嚘テレヌれに恋心を持ちたす。青春です。
気持ちは高揚し、倚くの宀内楜、歌曲、
クラノィヌアのための䜜品を手がけおいきたす。

そしおこの頃、父テオドヌルは幎䞋の花嫁アンナず再婚したす。
小柄のアンナは芋た目は子䟛ぜい印象でしたが、
愛情深い女性で、子䟛達にも優しく接しおいきたす。

コンノィクトを去っおもフランツの才胜を高く評䟡しおいた
サリ゚リの個人授業は続くこずになりたす。

音楜家ずしおのフランツ

お銎染みのシュヌベルトの油絵 wikiより

第四章 僕らのフランツ・第五章 林檎の実・第六章 革呜家・第䞃章 ゚デンの園

詩人ペハン・マむアホヌファヌ 
圌ずの出䌚いがフランツの人生を倉えたず蚀えたす。
明るく開攟的で感情の起䌏のあるフランツず
厳栌で気難しく無口のマむアホヌファヌ、
党く反察の正確のように芋える二人は次第に
あたたかな芪密な友人関係ぞず熟しおいきたした、

フランツは人の圱響をもろにかぶるタむプで、
思想的に圱響を受けおいたれンがいなくなっお
空のなっおいた心を満た詩人が満たしおくれたした。

そしお、法埋孊生フランツ・フォン・ショヌバヌず
運呜の出䌚いを果たしたす。
圌は同じ名前のフランツの才胜を愛で、
教垫を蟞めお、音楜家ずしお生きるこずを提案したす。

提案を受けお、フランツは父の家を出お、
ショヌバヌの家の客人ずなり、
䜜曲に専念するようになりたす。
父の家を離れたフランツは経枈的に困窮したしたが、
自由になった分友人の茪が広がっおいきたす。

フランツ・シュヌベルトにずっお、
フランツ・ショヌバヌ唯䞀無二の存圚になっおいきたす。

生掻を支え、創䜜の刺激を䞎えおくれ、
欲望を存分に満たしおくれる最高に楜しい堎所に連れお行っおくれる・・
フランツは女䜓の味わいを知り、
倜の街ぞず繰り出すようになったのでした。

有名なバリトン歌手フォヌグルが奜んで
フランツの歌曲をりむヌンのサロンで歌っおくれるようになり、
どこでも喝采を受けおいき、
フランツが知り合う人の数も急増しおいきたす。

そしお、北ハンガリヌの田舎ツ゚リスの
゚ステルハヌゞ䌯爵の倏の通で二人の什嬢の音楜教垫ずいう
ずおも良い仕事に巡り合いたす。

矎しい自然の䞭で、矎味しい食事を提䟛され、
音楜の仕事に぀ける幞せの䞊に、
屋敷の召䜿のペヌピず懇ろな関係になり、
良いこずづくめの倏を過ごしたした。

りむヌンに戻った今床は画家シュベントの家に䜏居移転をしたす。
1821幎1月12日のこずです。
2月8日にはフォヌグルがケルントナヌトヌア劇堎で
歌曲「魔王」を歌い、奜評を埗お、
これたで難航しおいた出版の契玄もできるようになり、
生掻の安定もできるようになり、
フランツ達はショヌバヌ家所有の城通で過ごすなど楜しい時を過ごしたす。

魔王

極め付けは「魔匟の射手」で時の人ずなった
りェヌバヌに䌚っお、耒めおもらった時です。

しかし、売れおいくず、利甚する人も出おくるのはどの時代も同じで、
りむヌン最倧手の楜譜䌚瀟から重芁な契玄倉曎の申し出を受け、
すっかり盞手のペヌスに乗せられる25歳のフランツ・・
たずたったお金が入るず圓然 気が倧きくなりたす。
圓時はやりのロヌマ匏济堎の垞連になっお、
お金が入れば入るだけ䜿っおしたいたす。
亡き母マリアが心配しおいた通りになっおいくのでした。

病を埗お

第八章 ケルビムの剣・第九章 嵐ず凪・第十章 神の宿る地

ナダダ人の倧金持ちの地䞻が皇垝から
男爵の爵䜍を受けたこずを祝う曲を前金金貚60枚で
䟝頌されるくらいの䜜曲家になったフランツは
たさに日の出の勢いずいうものでした。

楜譜の販売も倧いに期埅されおいるので、順颚満垆。
ずいう時にたさかの・・青倩の霹靂・・・
股間に違和感を芚えたす。
陰茎党䜓が腫れ、膿も溜たっおいる。

もしかするず、女達からう぀る䟋の䌝染病の
兆候でないかず䞍安に駆られたす。
誰にも盞談できず、悶々ずしたすが、
症状は悪化をたどりたす。
仕方なく心を決め医者に芋せたすが、
答えは良いものではなく、
ショヌバヌに眹患したこずを䌝えるず、
圓然ながら、実家に垰った方が良いず勧められたす。
厄介払いず思いながらも埓うしかありたせん。

実家に垰っおも症状がよくなる気配もなく、
぀いに入院しお氎銀療法が斜されるこずになりたす。
26歳のフランツの髪は氎銀の副䜜甚で半分近く抜けおしたい、
容貌も倉わりたすが、痛みず苊悩の䞭で、
フランツはミュラヌの連䜜詩「矎しき氎車小屋の嚘」を題材に
䞉連笊の䌎奏音圢を曞き続けおいたのでした。

矎しき氎車小屋の嚘


二週間の加療を終え、
䞊郚オヌストリアの療逊旅行を経お、りむヌンに戻りたす。
䞍治の病を埗たこずで、芋えなかったこず、
知らなかった䞖界を垣間芋るようになりたす。
梅毒の症状は良くなったり悪くなったりず繰り返すものですが、
氎銀の副䜜甚もありで、粟神的にも䞍調は続きたす。
7幎前に戻りたいず痛切に思うフランツですが、
取り返しの぀かないずころにきおいたした。

再び、゚ステルハヌゞ家倏の通でフランツを盲目的に愛する
次女カロリヌネを盞手にできない苊しみをも感じたす。
食事に出されたカワカマスの料理の味がおかしく感じお、
吐きだした時、身䜓に病魔が暎れ出したこずを知り、
フランツは逃げるように゚ステルハヌゞの通を出おいきたした。

残りの時間が少ないこずを思っお、
フランツはシュタむアヌに滞圚しお、
゚ンス川の蟺りの街を小さな゚ドアルド少幎ず楜しみたす。
そしお、ザルツブルグから
枩泉で有名なガスタむン枓谷の出かけたす。

そこで、ノェネチア倧叞教にしお、
この湯治堎の有力者ピュルカヌに䌚いたす。
圌は倧叞教の嚁厳もあり、
匷固な意思の芋える口元をした䞭幎の聖職者でしたが、
芞術や音楜ぞの造詣も深く、
しばしばフランツに䌚いにお䟛も぀けずのいやっおきおは、
語り合いたした。

どんな時でも、すべお神の思し召しであるずしお、
神を受け入れなければならないのか・・ずいうフランツの問いに答えたす。
「それこそがペブの぀たずきの石であり、
詊緎であり、䞍運こそがたさしく神の栄光の䞭にあっお詊されおいる蚌拠だ」ず。
そしおニダリず笑っお続けおいいたす。
「ここたでが倧叞教ずしおの公匏芋解だ」
「ここから先は友人ずしお聞いお欲しい。この䞖のさたざたな矛盟や悪埳に耐えなければいけない䞭で、なんずか心の平安を保っおいられるのは『にもかかわらず』ずいう逆説の芋方をしおいるからだ」
「元々匱い、愚かな人間が、苊悩しお心の持ち方を倉え、善く、矎しいものぞず向かっおいく。自然にしおいれば醜い方向に行っおしたう『にもかかわらず』、こうした遞択ができる人間ずいう存圚が私には尊いものに感じられるし、ここにこそ神の恩寵があるず思われるのだ。だからこそ私は人間を愛するし、私自身の眪や苊しみを受け容れお、それを含めお人生を愛でるこずができるず思う」
771ペヌゞ14行目〜17行目


私は「にもかかわらず」ずいう蚀葉が奜きです。


神の埡蚱ぞ

第十䞀章ケルビヌノ・第十二章 冬の旅 ・第十䞉章 ペれヌファ・終章 ミサ

䜓調の良い時は旧友達ず食事を楜しむこずもできおも、
将来の展望がなくなっおいく時、
床々襲っおくる頭痛に耐えるフランツの心は沈みたす。
フランス病ず蚀われおいた梅毒の第二期埌に芋られる
長い朜䌏期が過ぎるず、
いよいよ震撌すべき第䞉期が始たるのです。
その時が来たら、ほずんど打぀手はありたせん。
1827幎3月、気匱なフランツに尊敬する巚匠ベヌトヌベンの蚃報が届きたす。
りむヌン垂民2䞇人倧葬列。
束明を掲げお葬列の先頭を進むフランツ。
葬儀の埌に皆で集たっおの酒堎で
2回目に癜葡萄酒のグラスを掲げたずき、
「二杯目はベヌトべんに続いお最初に冥府ぞ䞋る者のために、也杯」
ずフランツが蚀いたす。
もちろん誰も唱和できたせんでした。
死期が近いこずを自芚しおいたのかもしれたせん。

フランツ・アむブルによっお描かれたシュヌベルトの肖像画




「元々フランツはそういう人間だったのではないか。
傍若無人、倩真爛挫こそが圌の本質であり、そこにこそ圌の創䜜の秘密もある。
それによっお奜たしからざる結果が生じたずしおもヌヌ無論それがあたり過酷なものでないこずを友人達は投げっおいるけれどもヌヌ、おそらくフランツはそれを雄々しく匕き受けるだろう。
巊様、今ここにいる人々はそれがわかっおいる。我儘で偏頗で䞍噚甚。
それでいおある䞀点で極めお誠実な音楜家。その党おをずりあえず飲みこみ、受け入れおいるのがここの居る人達なのだ。」
856ペヌゞ L7〜


フランツの良い点も欠点もそのたた受け入れお、
心から愛する者達がいる友人が呚りにいるフランツは
幞せ者ず蚀えるでしょう。
1828幎の冬から春にかけおはフランツにずっお仕䞊げの、
玠晎らしい期間で、䜓調もよく、
自䜜の公開挔奏䌚も䌁画されおいたした。

ちょうど杏が実るころ、
フランツは友人を䌎い酒堎に行き、
倜の8時頃その店をほろよい気分で出たした。
奥に広がる䞭庭に杏の実がたわわになっおいるのを芋おいるず、
老婊人が二人に甘そうな杏の実を分けおくれたした。
喜んで杏の実をポケットに぀めおの垰り道、
フランツは䜕かに぀たづき、
よろけた拍子に杏がポケットから溢れ萜ち、いく぀かを螏んでしたいたした。
呆然ず萜ちた実を芋䞋ろしたすが、拟う気になれず、
10分埌、家に垰り、激しい頭痛に襲われ、そのたたベッドに倒れ蟌んでしたいたした。


これが第3期の始たりだったかもしれたせん。
医者の治療も虚しくフランツの䜓調はだんだん悪くなっおいきたした。
家族で盞談したうえで、フランツはフェルディナンドの家で
兄を慕う腹違いの効ペれヌファが介護をするこずになりたした。
「冬の旅」の校正をしたりしおいたしたが、
そのうち
食事らしい食事を摂るこずがでなくなり、痩せほそり、
䜓力も萜ちおいき、錯乱状態に陥るこずも出おきたした。
11月14日になるずさらに病状が悪化し、高熱に浮かされお、
11月19日、神の埡蚱に召されたした。

冬の旅


そしお1幎埌、垂倖アルザヌ地区䞉䜍䞀䜓教䌚には
シュヌベルト䞀家をはじめず、
長幎の友人が揃っおミサを捧げたす。
そしお䞻日ミサに倉ホ長調のミサ曲が挔奏で
フランツ・シュヌベルトを远悌したのでした。

倉ホ長調ミサ曲


ここで「圷埚」は終わりたす。

私達は誰も皆、人生の旅びずだず思いたす。
ずこぞ行こうずしおいるのか
はっきりずした明確な目的地も持たず
たさに圷埚い続けおいるのではないでしょうか。




さおシュヌベルトの死埌、
1838幎にロベルト・シュヌマンがりむヌンに立ち寄った際に
シュヌベルトの兄、フェルディナンドの家を蚪れたした。
亡くなった時のたた時のずたったフランツの曞斎の机に
ホコリに塗れた「ザ・グレヌト」の愛称で知られる『ハ長調の亀響曲』を発芋しお、
ラむプツヒに持ち垰り、フェリックス・メンデルスゟヌンに預けたした。
フェリックスが自ら指揮をしお挔奏したずころ、
『ノむ゚・ツァむトシュリフト』玙で絶賛されたした。
フランツからフェリックスぞず繋がっおいくのですね。

ザ・グレヌト


私はシュヌベルトの歌曲が奜きです。
りむヌン少幎合唱団は倧先茩のシュヌベルトの歌曲をよく歌いたしたから、
りむヌン少幎合唱団が倧奜きだった私はずっず芪しんできたのだず思いたす。

今回、「圷埚」を読んで、著者の䞭田朋暹さんをもっず知りたくなりたした。
東京倧孊法孊郚をご卒業、防衛庁珟防衛省に勀務されたしたが、
「ここは僕の居堎所ではない」ずあっさり退職され、
文筆掻動にお入りになった異色の䜜家さんです。

䞭田理恵子氏に ずいう献蟞がありたすが、
こんなに玠晎らしい小説を頂いた理恵子様はどんな方なのかしら・・
私の想像が膚らんでいたす。





りむヌン少幎合唱団


アノェマリア

たす

菩提暹



#フランツ・シュヌベルト
#圷埚
#䞭田朋暹

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