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奇跡の歌姫〜渡辺はま子〜2022


新横浜ラーメン博物館の前に滝の流れる
素敵なフレンチレストランがありました。
その名はラントラクト〜幕間〜。
私も何度かお食事に行きましたが、
残念ながら今は営業していません。

新横浜ラントラクト



その素敵な場所で
横浜夢座のドラマリーディングLIVE  VOL.1が
限定公開という形で開催されました。

企画:五大路子
作 :山崎洋子
脚色:あべゆかり
演出:高橋和久
音楽:三神絵里子
出演:五大路子
   高井清史
   高橋和久

渡辺はま子役 五大路子



当日いただいたパンフレットに書かれていた
五大路子さんのメッセージを転記します。

人生の中で私たちは、どれだけの人と出逢うことができるでしょう。
三十代の頃、私は伊勢佐木町で催されたパーティーで、はま子さんにお会いしたことがあります。1999年12月31日の訃報を知った私が、はま子さんのことを調べ始めたのは運命だったのでしょうか。はま子さんの歌った「あゝモンテンルパの夜は更けて」からノンフィクション作家の新井恵美子さんを知り、新井さんのご紹介でモンテンルパの会の方々と出逢います。
 戦後8年ものあいだBC級戦犯としてモンテンルパの刑務所に囚われ、この歌の作詞をされた代田銀太郎さん、作曲の伊藤正康さん、復員局の植木信良さん。毎年開かれる「モンテンルパの会」の会合に私も参加させていただきお話しを伺いました。はま子さんのお嬢さまの征子さんには、実物のオルゴールをはじめ貴重な資料を見せていただきました。そして小説家の山崎洋子さんの筆によって2001年、「奇跡の歌姫 渡辺はま子」の舞台が生まれました。
 あれから20年、虜囚を経験された方たちは皆、この世を去られました。
私は代田銀太郎さんのふるさと、長野で公演した時のことを忘れられません。代田さんは別れ際に私に手を両手でギューッと握って言われました。「五大さん、わたしらがいなくなっても、この芝居をやってください。お願いしますよ。」
 2022年、たくさんの想いを紡ぎ、ドラマ・リーディングという形で「奇跡の歌姫」をお届けできることを感謝いたします。この作品を通して、また新たな出逢いが生まれることを夢みております。
パンフレットより

モンテンルパBC級戦犯の もうひとつの歌




奇跡の歌姫「渡辺はま子」


あゝモンテンルパの夜は更けて

はま子さんの肉声もお聴きください。

作家 山崎洋子先生の想い


2001年の初演を迎えた舞台は終戦70周年企画の2015年に横浜ランドマークで上演されました。
そのパンフレットに作家山崎洋子さんが寄稿されている文章を紹介します。

勇気とはこのことではないか。真の行動力とはこういうものではないのか、こんな時代がまた来たら、自分になにができるのか・・・・。
渡辺はま子という人を知るため、取材し、資料を読みながら、私は何度も自問自答せずにはいられなかった。
 1945年、太平洋戦争は終結し、日本は敗戦国になった。おびただしい数の死傷者、焼け跡になった街、占領軍による接収・・・・・無惨な「戦後」から何とか抜け出そうと、人々は必死だった。
 なぜ、戦争が起きたのか。誰にその責任があったのか。真っ先に考えるべきは、そのことだったのかもしれない。が、誰の心身も疲弊していた。
日々を生きることで精一杯だった。戦勝国による裁判が行われ、戦争責任者として「戦犯」に判決が下ると、世間もそれを受け入れた。
 一部の人間が勘違いを犯したのだ、自分には罪がない、むしろ戦争の被害者だ。そう思わないことには、前へ進むことができなかったのだろう。
 戦争責任は、すべての大人が担うべきだと、私は思う。でも実際に戦争が起きたら、一人の大人として自分の責任を認め、信念に沿って動くことができるだろうか。そうありたいと願ってはいるが、正直に言うと自信はない。
 けれど、渡辺はま子という女性は、それをやってのけた。誰に言われたわけでもない。軍の依頼で戦地へ慰問に行った。国威発揚という国策に協力した。だから戦争責任の一端を自分も担うべきだ・・・・と、自分で自分に裁きを下し、責任をとるべく一人で行動を開始したのだ。
それは、人気歌手、妻、母という恵まれた立場をあやうくしかねないものだった。家族も仕事関係者も猛反対した。売名行為だと、世間にも叩かれた。だが彼女はひるまなかった。なんの後ろ盾もなく、国交のないフィリピンへ飛んだ。死刑と無期懲役を宣告された、日本人B級戦犯達を救うために。
 彼女の行動は、大きな奇跡を生み出した。戦後から70年、戦争を知らない世代の方が多くなったいま、この芝居が上映されることは、大きな意味を持つと私は思う。いやぜひとも、一人一人にその意味を考えていただけたらと、願わずにはいられない。もしいま、日本の社会が戦争に近づいているとすれば、その責任は私にも、あなたにも、あると思うのだ。

奇跡の歌姫 パンフレットより





2015年、私はランドマークの劇場で舞台を観劇しました。
その時よりも今回の方が、心を揺さぶられました。
それは、私自身は年を重ね、
孫達世代の社会がどうなるのかと気になっていることと、
恐ろしいことに、戦争が身近に感じられるからです。

山崎先生が書かれているように
もしいま、日本の社会が戦争に近づいているとすれば、
その責任は私にも、あなたにも、あると思うのだ。

という想いが強くなっています。

今回の舞台は五大さんと山崎先生がバッタリあって「こんなご時世、なかなか舞台も出来なくて」という五大さんに「あら、なんとか、できるんじゃない?」という山崎先生の言葉にはっとされて、考えて、この「リーディングライブ」を企画されたという話を聞きました。

「こんなご時世だから、なかなか舞台はできないわ」「ほんとよね。早く舞台ができるようになればいいわね」というのが普通の世間話の展開ですが、そこで終わらず、前に一歩でたところが、五大さんの「本気」の現れだと思いました。

舞台の背景や、役者さんの動きがないので、語られる言葉から想像力が掻き立てられ、その情景が浮かびました。
2時間の舞台を1時間にすることで、多くを削ぎ落とし、大切なものが語れます。
3人だけの真剣勝負です。

左から 高橋和久さん、五大路子さん、高井清史さん



目を閉じて聞いていると時と場所を超えていきます。
熱い思いがあふれてきて、涙が流れて、ハンカチで何度も拭いました。

終了後、トークイベントが行われました。
五大路子さんの司会で
作家山崎洋子先生
モンテンルパの会から増田さん、常岡さん、
そして当時高校1年ながら共鳴を受け、
戦犯の方と文通をしていた井垣さん。
4名の方がそれぞれの立場からお話されました。

増田さんのお父様は満州から職業軍人としてフィリピンに連れていかれました。
昭和28年、横浜港に、迎えに行ったことをよく覚えていました。

戦後に生まれた常岡さんは「父が帰ってこなかったら、私は生まれていませんでした。」とおっしゃって、
「和合の心」の大切さをもお話しくださいました。

文通をしているころ、結核にかかってしまった井垣さん。
フィリピンのみんなから励まされ、自分も強く生きようと思ったことを話されました。

人生は続き、歴史が作られていくのだと思いました。

展示されていた資料
展示されていた資料


大先輩 渡辺はま子さん


1910年(明治43年)に横浜平沼で誕生した加藤濱子さん。本名濱子さんは生涯横浜で過ごしたハマっ子です。愛称は「おはまさん」
お母様のお祖父様が日系アメリカ人でいしたので、日本人離れした美貌に恵まれて、武蔵野音楽学校卒業後、横浜高等女学校の音楽の先生になりました。その後教師を辞めて、歌手の道を歩みました。

はま子さんは私の母校捜真女学校の大先輩です。

1973年、私が高校2年生の時に、母校のチャペルにいらしてくださいました。
その年、紫綬褒章を受賞され、お祝いの意味もあったのでしょうか。
同年女学校の校長先生になられた日野綾子先生と親しくされていたからでしょうか。
アコーデオン奏者とお二人でチャペルの壇上にあがられました。

いつも冷静沈着の年配の先生が、いつになくはしゃいでいるのが、印象的でした。

そして、一番うるさい時期の高校2年生の私たち。

「渡辺はま子?誰?歌手?」と、
最初は「ふ〜ん」という冷めた雰囲気がありました。
「アヤちゃん」「はまちゃん」と笑顔で呼びあう二人は何となく雰囲気が似ていました。
はま子さんが自分の物語を話していくうちに、次第に空気が変わっていきました。

「人生への本気さ」が半端ないなとみんな感じてきたのです。

アコーディオンの伴奏で「蘇州夜曲」を歌うころには、私達の心は鷲掴みになっていました。

「歌手になりたい人いるかしら・・・?
 うんと、勉強しなさいよ。
 何でもそうだけど、本読んで、勉強することはとても大切よ。」

と当たり前のことをおっしゃるのですが、その当たり前のことに重みがありました。



捜真学院初代院長 故 日野綾子先生


1999年12月31日に天に召された渡辺はま子さんを追うように、
2000年3月9日、日野綾子先生は天国に凱旋されました。
姉妹のような美しいお二人の佇まいは、
記憶に鮮やかに残っています。



自分の人生を生きることが難しかった時代に、
勇気を持って、自らの考えで行動するには
「核」のようなものが必要です。
渡辺はま子さんの「核」は、
この学校の母と呼ばれたミス・カンヴァースの言葉がありました。

ミス・カンヴァース wikiより


皆さんは年月を重ねるにつれ、ますます多くの人々と交わるようになりますが、どうぞ純粋な思いをもって歩んで下さい。周りの人々の邪悪な思いに、影響を受けて心を汚すようなことがあってはなりません。働くときも、休むときも、前向きな考えで心を満たしてください。・・・美しい言葉を使いましょう。美しい言葉は、周りの人々を高めます。あなたの口からこぼれ出た一言の不注意な言葉が、教育ある女性としての影響力を貶めることになるのです。

 思いやりの心をもって人生を歩んでください。どんなに自分の家庭での生活が忙しくても、垣根の向こうに住む隣人を忘れることがあってはなりません。隣人の喜びと悲しみに心を開いて下さい。・・・

 さあ愛する娘たちよ、貴方方は何処にあっても、どんなことをしていようとも、純粋で思いやりに満ち、勝利に繋がる人生を歩んで下さい。そうすれば日本が、そして世界がよりよい場所へと変わっていくことでしょう。
 恐れることはありません。主があなたのために闘ってくださるのですから・ ・ ・
ミス・カンヴァースの言葉 捜真学院報より


そして一言
おっしゃっています。

“Trust in God. Be true to your best self“
「神を信頼しなさい。最善の自己に忠実でありなさい」


最近思うこと

最近、高齢者と呼ばれる年になり、
これまでの人生を振り返り、ふと思うことがあります。
自分の夢を叶えられたか・・
自分のことばかり考えていないか・・・
自分の人生にイエス!と言えているか・・
自分の周りのことが目に入っているか・・・
自分の想いとおりにしようとしてはいないか・・・
自分の責任を果たしているだろうか・・・
自分の最後の時をどう考えて行ったら良いか・・・

などなど。

そのたびに「最善の自己に忠実でありなさい」という
ミス・カンヴァースの言葉が心に響きます。


五大路子さんはハマのメリーさんと出会い、
心惹かれ、メリーさんだけでない、
横浜でいきた多くの名もない女性達のことを描いた
「横浜ローザ」を演じました。

そして、昭和の歌姫渡辺はま子さんと出会い、
訃報を聞いた後に、はま子さんを調べていき、
「奇跡の歌姫」を舞台化しました。

そして来週は横浜大空襲を描いた
「真昼の夕焼け」の舞台に立たれます。

思ったことを実行する行動力を持つ五大路子さん、しなやかでお茶目な五大さんの後を追って私も自分の夢を追っていきいたと思います。

私が撮影した大切な一枚

ドラマリーディングLIVE 最初の一歩。
これから多くのところで
たくさんの方々のい観ていただきたいと思います。

これは過去の物語でなく
今、この時に考えていきたい
現在、未来の物語かもしれません。


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