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♫主われを愛す♫ 日本で最初の讃美歌

去年のちょうど今頃、
clubhouseのワンダーランドに飛び込みました。
なんだかとても楽しそうだけど、
ハマりそうで、ちょっとこわい…と思いました。

何かテーマにしてやってみたい❣️と
思って始めた部屋が「とことんユーミン」でした。
アルバムを1枚ずつ、ひもといていくという
マニアックな部屋でした。

そして、もう一つ持った部屋が
🎹讃美歌部屋🎹という
これもかなりマニアックなお部屋でした。

最初の日のトピックスが
「日本で最初に歌われた讃美歌」です。

「ヨコハマの女性宣教師」
メアリー・P・プラインと「グランマの手紙」
という本を読み、
とても感銘を受けたことがきっかけで
讃美歌部屋を開きました。




この本には
1871年から1875年に宣教師として横浜に滞在した
メアリー女史が
故国アメリカにいる三人の孫に
書き綴った愛ある手紙が収められています。
多く人に読んでもらうために
1877年に出版された本を
安倍純子先生が訳された貴重な一冊です。


読みすすめていくうちに
私は明治時代にタイムスリップしていきました。


1871年
ジュリア・N・クロスビー、
ルイーズ・ピアソン、
メアリー・プライン
3人の女性宣教師が
揃って来日し、
やがて横浜山手48番地に
バラの家屋を借りて、
アメリカン・ミッション・ホームを建設しました。

そしてこの3人が
横浜共立の前身・共立女学校と
共立女子聖書学院の前身・
偕成伝道女学校を創設しました。



メアリーが
1872年4月18日、
孫娘のキティ–あてに書いた手紙の文中に
ノナという少女が登場します。

ノナは親に捨てられ、大怪我で歩行困難で、
ホームに引き取られた日本人の少女です。
もちろん英語は一言も理解できません。

最初は先生たち言うことも聞かず
周りの人を手こずらせました。


当時の日本には今のような歌はありませんでした。
誰も歌うこと知りませんでした。
宣教師がやってきて初めて
「歌」を耳にしたのです。


宣教師たちが歌う讃美歌を最初に聴いたとき、
ノナは戸惑いました。
でも、次第に興味を示して
歌を英語で覚えていきました。


そのうち、ノナは早起きをして
食堂に一番のりして、
自分の小さな椅子に腰をかけ、
讃美歌を歌うようになりました。

彼女の歌う讃美歌はこの3曲でした。

“Jesus loves me “
“Christ is born the Lord of glory “
“There is a happy land “


「この讃美歌の他にも部分的ですが、5、6曲を歌います。」
という記述もありました。



♬“Jesus loves me “
「主われを愛す」超有名な讃美歌です。



エスワレヲ愛シマス。
サウ聖書申シマス。
彼レニ子供中。
信スレハ属ス。
ハイエス愛ス。
ハイエス愛ス。
サウ聖書申ス。
エスワカタメニ。
天ノ御門ヒラキ。
ソノチニヨレリ。
ハイエス愛ス。

ジュリア・クロスビーが最初の翻訳した歌詞です。









そして
♬“There is a happy land “
この讃美歌は「大草原小さな家」
“LITTLE HOUSE ON THE PRAIRIE”
「第17章 父さん 町にいく」に登場します。
父さんが町に出かけ、
狼の遠吠えが近くで聴こえる不安な夜、
父さんの身を案じるローラはなかなか寝付けません。
その時ゆり椅子に座って
母さんが優しい声で歌うのがこの歌でした。




どんなこもり歌なのかしらと
ずっと気になっていました。
そして、アメリカへ数年前「大草原の小さな家」を
訪ねる旅に出かけて、
現地で買ったCDで初めてこの子守歌を聴きました。
あれ!とびっくりです。


讃美歌490番 あまつみくには いとたのし でした。


この讃美歌は「永生 天国」という項目に分類され、
普通はあまり歌われない讃美歌でしたので、
知らなかったのです。

「主われを愛す」と同じように
「児童」に分類されていたなら、
教会学校でもっと歌われていたに違いありません。


ところで、
ヘボン式ローマ字を作ったヘボン博士は
1953年日米修好通商条約締結で
来日が可能になると知るや、
長男を知人に預けて、妻クララと共に
1859年にニューヨークから横浜へ
宣教師としてやってきました。
ヘボン博士はニューヨークきっての病院を経営していて、
市内に3つの広大な住宅と別荘を持つ成功者でしたが、
相次いで3人の子どもを失い、
「自分のために選ばれた任地へ行きたい」
と強い思いを持っていました。
そして、遣わされた場所が日本だったのです。


神奈川宿に到着したヘボン博士は
成仏寺本堂に居を構えました。
ニューヨークから選んできた荷物は3トンといわれ、
その中にフォルテピアノがあったという記録が残っています。




シーボルトが持ってきたスクエアピアノが
日本最初のピアノですが、
フォルテピアノの第1号はクララの持ってきたものです。
そのピアノがどうなったか、
いろいろ調べても記述がなく、
今も横浜ミストリーとなっています。

私の家から徒歩10分圏内にある
成仏寺に置かれたフォルテピアノ…
その音色はどうハマっ子に響いたのでしょうか。

神奈川宿から山手の居住地に引っ越した
ヘボン博士の家で開かれていた
クララの教会学校では
フォルテピアノの伴奏によって
数々の讃美歌が歌われていました。
その音が、子どもたちの声が聞きえてくるようです。

主われをあいす
主はつよければ
われよわくとも
おそれはあらじ
わが主エス わが主エス
わが主エス われをあいす


日本で最初に讃美歌を歌ったのは
常識にとらわれた大人ではなく
柔らかな心をもった
子どもたちだった…

いつの世にも
新しいものを取り入れるのは
若い心なのですね。

かくしてclubhouseを
はじめた私でした。
あれから1年たつとは…
早いものです…。

#主我を愛す
#讃美歌
#日本で最初
#こどもさんびか




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