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DJ物語part.2 (1988)

1988年1月、六本木のディスコ「トゥーリア」で天井の照明装置が落ちる事故が起きました。その時の海外からのDJをブッキングしていたM氏と1年前くらいに知り合いになり、麻雀したり早朝野球をやったりしていました。そのM氏曰く、高校生の時に清原と対戦して三振をとったことがあると豪語していました。僕のポジションは何故かキャッチャーだったので、その球を受けましたが想像以上に豪速球でその話は嘘ではないと信じたほど鬼の様な素晴らしい球でした。僕らのチームはSUPER LOVEERSの田中くんやイギリスの靴・Tricker's やGEORGE・COXを輸入していた加藤マサキさん、Vivienne Westwoodを扱っていたMad galleryのボーイさん、まだ学生だったイラストレーターのエドツワキ、後に芝浦ゴールドでおでん屋をやったヒデ、俊美っ子倶楽部の第一号のホテイ(須藤一裕)など、僕周りの面白い人が集まったチームでした。対戦相手4チームありました。まずは原宿ア・ストア・ロボットとデプト・ストアの混合チーム「インディアンズ」というチームでNIGOの名付け親イチロウさんが中心でキャッチャーにはDJ・NORIさんや野手にDJ・HEYTAさんがいました。他のチームはDJ小林怪さん率いる渋谷の飲食店のチーム、渋カジ全盛期のBEAMSのチームと渋谷・セレクトショップMADE IN WORLDのチーム計5チームで毎週定期的にリーグ戦をしてました。試合も楽しかったのですが終了後に、DJの先輩方と色んな話が出来た事は貴重な体験でした。野球で知りあったデザイナー、ショップオーナー、スタイリスト、カメラマン、そしてDJの方々からイベントに誘われてDJしたり、遊びに行くようになりました。

その野球チームの監督のボーイさんと田中くんそして、M氏と麻雀をしてました。海外からのDJは決まっていましたがトゥーリアがなくなったので場所が中々、見つからずイベントが難しいとM氏が困っていました。そして、ラフォーレ原宿で出来ないか?と言う話になり、僕が次の日ラフォーレの人に相談してみました。ラフォーレ側もやりたいと言う事でラフォーレのパート2の地下のギャラリー・スペースでやる事になりました。メインDJはイギリスで既に人気上昇中のSoul II SoulのDJ・jazzie QとThe Wild BunchのDJ Miloでした。2人ともフレッシュなヒップハウスナンバー、JUNGLE BROTHERS のI’LL HOUSE YOUを2枚使ってロングミックスしていたのを今でも思い出します。

僕は早い時間と2人の合間の時間を任されました。Curtis Mayfieldの"Give Me Your Love"やLAURA LEE の"CRUMBS OFF THE TABLE "、そしてBOBBY CALDWELL "WHAT YOU WON’T DO FOR LOVE"などをゆったりとしたレア・グルーヴをプレイしたことを覚えてます。このイベントのおかげでDJとしてやっていけるかも!と少し自信が持てました。そんな良いテンションでの下北沢・ZOOの毎週土曜日の"SUPER NINJA FREAKを迎えるのでした。

店長の山下さんの狙いか?偶然か?川辺ヒロシくん、下山くん、そして僕ら3人は歳が同じでした。そして、前のZOOの土曜日を任されていたDJ EMMA君も同じ歳だったのでライバルとかでなく、互いに凄く刺激しあう、意識出来るイイ仲間でした。DJ EMMAは翌年、CONYが主催したパーティ「コニーズ・パーティ」のメインDJになるまで時々レコードを持って土曜日に遊びに来てました。EMMA君は当時からカット・インや繋ぎが半端なく正確で、それでいて音の輪郭が見える透き通った美しい音を出すDJでした。ちなみにDJの藤井悟さん(当時ZOOの水曜日にウサギナイト〜カマクラをDJ担当)も爆音だけど透明感のある音を出せる特殊機能をもった人でした。川辺ヒロシくんも同じく出す音が優しくて綺麗な音を出してました。ちなみに僕は雑でした(笑)

88年はGUYのTeddy Rileyが創ったニュー・サウンド「New Jack Swing」がアメリカで流行して、日本も横浜、六本木周辺のクラブが「ボビ男君(ボビー・ブラウンのコスプレの男子)」が此れ見よがしにダンスをしてました。その「New Jack Swing」のビートの元となったワシントンD.C.発GO GOの最強バンド・Trouble Funkが初来日しました。会場の中野サンプラザが揺れる程、大盛り上がりでした。強烈なリズムセクションにホーンが絡み、コール&レスポンスが延々と続くライブはリズムは違いますが、Fela Kuti(フェラ・クティ)のアフロ・ビートのスタイルに近い感じでした。New Jack Swingは音楽としては嫌いではないですが、アフリカ大陸特有の土の臭いがする感じがするGO GOの方が当時の自分とZOOのお店的にも合っていました。特にGO GOのゴッドファーザー・Chuck BrownのJAZZのスタンダードやファンキーなナンバーをカバーするセンスとアレンジにハマりました。


SUPER NINJA FREAKの流れの大体は21時〜23時は僕が担当、23時から1時までは川辺君、1時から3時までは下山君、3時から4時までは僕に戻り、ラストの5時までは3人でBack to Backをしていました。下山君はルックスも良く新しいのに敏感で、常に最新のハウスミュージックをロングミックスしてました。川辺君はニュー・ウェーブ、ロック、ソウル、そしてレゲエとスカ・ロックステディーを中心に新旧問わずオールジャンルをミックスしていました。僕は主にヒップホップとファンク、そしてハウス・ミュージックとダンスクラッシックをミックスしていました。毎回楽しくて刺激のある夜でした。当時の光景で1番に思い出すのはいつも川辺君が出来立てホヤホヤのThe SKA FLAMESの"TOKYO SHOT"の7インチを流し、お客さんと一緒にダンスフロアで揉みくちゃになって踊った自分が今でも鮮明に覚えています。



SUPER NINJA FREAKが始まった頃は、ヒップホップやハウス・ミュージックの新譜を追うのに精一杯でしたがFairground Attractionのデビューアルバム「The First Kiss of a Million Kisses」は何故か迷わず購入しました。Fairground Attraction 、その他The Pale Fountains, The Housemartins 、The Style Council、Everything But The Girl、 Ben Watt、The Special AKA、Tom Waitsなど、高校時代にFMから流れていた曲や、上京して直ぐ貸しレコード屋でかりて小さな音で静かに聴いていた曲を、まだお客さんが来ない早い時間に爆音で流して、ダンスフロアで一人で踊っていました。ひとりカラオケならぬ、1人クラブを楽しんでました。 しばらくして、DJする前に中古レコード屋"フラッシュ・ディスク・ランチ"に行くのが習慣になりました。オーナーのツバキさんの感性と知識が詰まったお店で、見た事がない輸入盤のモノばかりでした。(現在もあります)。その習慣が中古Vinyl レコードを更に探究するきっかけになり、ジャンル問わず「中古だけど手垢の付いていないVINYL」を求めるようになりました。新譜を買うのと同時に、世の中の流れがどうであれ自分の中のヒット曲(マイブーム)を探す用になりました。 

SUPER NINJA FREAKには度々ドラゴン&ビッケが来ていました。川辺君のDJの時にダンスホール・スタイルで DJブースに上がって毎回盛り上げていました。ある日、お店に代官山にあった、輸入雑貨屋・DETENTEの店員さんが三重県の津でイベントをしたいのでドラゴン&ビッケとチエコ・ビューティーにオファー出来ないかと相談しに来ました。オールナイトのイベントだったので、ライブと川辺君1人で時間がもたないという理由で僕もDJで行く事になりました。そんな中、雑誌や噂などで広がり地方からのイベントのオファーが増えてはじめました。僕はドラゴン&ビッケのライブの時にダンスやボンゴを叩き、ライブを盛り上げ役をしていました。Tokyo No,1 SOUL SETが誕生するちょっと前の話です。

87年風営法の改正で、DISCOが衰退して「DJ +踊る場所+社交場」は主にクラブになりました。ハウスミュージックはACID、DEEP、TRIBLE、HARD等、細分化し始め、TECHNOはTRANCEなどの新しいジャンルも派生して行き、全世界のダンスフロアへ広がって行きました。イギリスからは雑誌・iDで特集されたACID JAZZや、その流れのレア・グルーヴ、ジャズ・ファンクブーム、そしてSOUL II SOUL放ったグランド・ビートという新しい足音が聴こえてきました。アメリカではショーン・ペン主演、デニス・ホッパー監督の映画『カラーズ 天使の消えた街』(Colors)が話題になり、そのテーマソングを西海岸のラッパーIce-Tが担当し、それがギャングスタ・ラップの着火剤になり、ドクター・ドレなどのN.W.Aなどに影響を与えて暴力的な歌詞を武器に社会現象を起こしますが僕は西海岸より、スラングをあまり使わず、会話形式のユーモアがあるニューヨークのJungle Brothers、De La Soul、そしてA Tribe Called Quest が中心となって出来たトライブ 「Native Tongues(ネイティブ・タン)」の方が全然ワクワクドキドキしました。
ニュー・スクールの夜明け前の年でした。

そして日本では、サルサ、カリプソ、ブーガルー、ソカ、ズークなどのカリブ系音楽、サンバ、ボサノバのブラジル音楽、アフリカのアフロビートなど、再発のVINYL盤が輸入レコード屋さんに並びはじめました。
大晦日のZOOのDJブースには川辺君と僕と下山君、そしてドラゴン&ビッケがいました。カウントダウンの直後、89年の幕開けはUu Madoo /Captain BarkeyのMix Upでした。
自分のDJ物語の中で一番激動な時期89年に入ります! つづく、、、。

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