DJ物語part.1(1984〜1988 )
1984年の春、僕は大学進学のために沢山の夢を抱きながら上京しました。住んだ場所は姉2
人が既に住んでいた西調布の風呂なしの2Kのアパートでした。最初は満員電車に揺られて神奈川の鶴川の校舎へ登校するのが嫌でした。なぜならば満員電車に慣れず直ぐ気持ちが悪くなり、途中下車して駅のトイレで嘔吐していました。5月を過ぎた頃には満員電車と鬱蒼とした空気にも身体が慣れてきました。おかげで東京に行く前に描き、想像していた事が出来る様になりました。好みの本を読み、粋な音楽をウォークマンで聴きながら電車の中の登下校をする事です。その当時、調布にあった貸しレコード店で田舎にいた頃に聴きたくても聴けなかったレコードを沢山かりました。そして、夜な夜なTDKやSONYのカセットテープに録音しました。ちなみに1番最初にかりたのはThe Specialsの1st 「Specials」と2nd「MORE SPECIAL」でした。
パンク、ニューウェーブを中心にほとんど毎日かりに行ってました。そして、一緒に上京して来て、高校の時にバンド組んでいた同級生・平山勉くんの家に頻繁に出入りしていました。平山君はミュージシャンを目指してヤマハの音楽の専門学校に通ってました。彼はブラック・ミュージックに詳しくて沢山レコードを持っていました。彼の持っていたレコードを片っ端からカセットテープに録音しました。プリンス、スライ&ザ・ファミリーストーンやジョージ・クリントン率いるP・FUNK系は全て彼のレコードから学びました。しばらくして彼は専門学校を辞めました。夢だったミュージシャンを諦めてバイト先のタワーレコードに就職しました。それから六本木・WAVEの方にヘッドハンティングされ、ブラック・ミュージックの仕入れ担当になりました。彼からの新譜や再発、そして中古盤の情報はとても貴重でした。そして彼はその後、僕のラフォーレ原宿のお店「CELLULOID(セルロイド)」を、法人にする時に僕が彼をWAVEからヘッドハンティングして、一緒にアパレル会社「EMANUEL」、そして「DOARAT」を設立しました。
時は戻して1984年夏前。平日の火曜日、初めて新宿・椿ハウスに大学の同級生と先輩と一緒に行きました。お目当ては大貫憲章さんが主催のロンドンナイト。ワクワクと緊張が止まりませんでした。上京して直ぐに姉と行ったディスコ「New York New York」とは別世界でした。ロンドンナイトの思い出は沢山あります。高校時代からの愛読雑誌・宝島で載っている憧れていたミュージシャン、モデル、デザイナー、有名な店員さん、そしてDJがお酒を飲み、楽しそうにしている姿を目の前にしました。お客さんも個性的で刺激的なファッションをしていました。今まで感じたことのない感覚に、なんだか不思議と、この世界に入りたいという想いが湧いてきました。「僕は東京にいる」。そう感じさせた夜でした。そして、なんのビジョンもありませんでしたが翌年春に大学を辞める決意をしました。小学校一年生から始めてた"剣の道"を通行止めにして、覚悟を決めました。新しい自分の"道"を見つけたかったからです。
大学を辞めて憧れの地、原宿で働き始めました。場所はラフォーレ原宿「CELLULOID(セルロイド)」という、地下1.5階のファッション雑貨お店でした。ラフォーレ原宿の仲間達と新しく出来た西麻布のクラブ“P.Picasso”には定期的に行きました。お目当ては高木康之君や藤原ヒロシ君、そして藤井悟さんと松岡徹くん。高校時代からの憧れの人のDJする日は必ず行ってました。ヒロシ君の流すHOUSE ・MUSIC、悟さんの爆音のROOTS&DANCE HALL・REGGAE、徹くんとやっくん(高木康之)の今迄聴いたことがない楽曲の選曲は毎回刺激的で、生きるエネルギーになっていました。
そして、原宿のCLUB Dのイベントや高樹町のバブリン・ダブもよく行きました。髙木完ちゃんと藤原ヒロシくんのTINNIE PUNXと藤井悟さんと松岡徹くんのSHOTSは僕にとって
永遠のアイドルです。
姉の所を離れて千歳烏山の四畳半アパートに一人暮らしを始めました。テレビはなく、あるのは小さなAIWAのステレオ・ミニコンポでした。仕事が終わったら原宿にある古着屋・デプトとシカゴを見て、平山君のバイト先の渋谷・タワーレコードに行くのが日課でした。休みの日は都内の古本屋と中古レコード屋を歩き回り宝探しをしていました。少ないバイト代だったのでほとんど買えませんでしたが、プラプラ街をするだけでも十分満足出来た日々でした。
1年過ぎたあたりに社長から話があると呼び出されました。突然、お店をお前にやる!と、いう話でした。急な話で驚き、悩みました。やる気はありますが、全くお金がありませんでした。そんな時、頼るのはやっぱり親しかいませんでした。直ぐに田舎に帰り両親に話をしました。親父は最初反対でしたが僕の気持ちを受け取ってくれました。母は頑張れと励ましてくれて「毎月10万づつ返すんだよ」と300万円を貸してくれました。姉もおばあちゃんも応援してくれました。ホント家族に感謝です。住む場所は原宿に近い代々木上原に引っ越しました。夜遊ぶ場所も徐々に変わって行きました。
下北沢ナイトクラブ、そう下北沢です。下北沢ナイトクラブはZOO〜SLITSと変わって行きます。
TechnicsのターンテーブルとVestaxのミキサーを購入して、家で毎晩やりました。
PUNK・NEW WAVE、DISCO・CLASSIC、HIP-HOP、SKA・ROCKSTEADY、ROOTS&DANCEHALL・REGGAE、HOUSE等、ジャンル分けして自作ミックス・カセットテープを作って次の日お店で流すのが楽しみでした。
1988年、お店も順調でしたが雑誌屋という、引き継いだお店の色と少し変えたくて新しい事にチャレンジしました。当時は音楽も"インディーズ"と言う言葉が流行っていたのでアパレル界でもインディーズ・ブランドというのが出てきた。その走りが"SUPER LOVERS"でした。まだTシャツしか作ってなかった初期の"SUPER LOVERS"、そして、他のインディーズ・ブランドや自作のアクセサリー、帽子などをお店で扱う様になり、今まで常に仕入れをしていた浅草橋や馬喰町問屋街の雑貨中心お店から少しずつ変わって行きました。
クラブに遊びに行くとこんな会話が多くなりました。
俊美「この服何処の?仕事何やってるの?」
A氏「洋服作ってるんだ!この、着てるのも自分で作ったんだよ。」
俊美「え〜!カワイイ!うちの店に置かない?」
A氏「え〜!ウソッ!イイのー」
俊美「明日、サンプル持ってお店に来て!」
A氏「持って行く!」
僕にとってのクラブは手垢の付いていない音楽を探す為の場所だけではなく、センスのある人を嗅ぎ分ける出逢いの場所に変わって行きました。そして、ある日"SUPER LOVERS"の田中君から「今度"ZOO"でイベントパーティーやるからDJやらない?!」と、誘われました。
僕の初めてDJをした場所は下北沢のZOOです。今でも鮮明に覚えています。DJのメンバーはライター / DJの荏開津広さん、福富幸宏くん、トーキョーエアーランナーズの関ちゃんでした。ターンテーブルにレコードを載せようとしましたが、手が震えて中々置けず、針を落とそうとするとさらにブルブルと激しく手が震えました。家でやるのとは大違いでした。そして、お客さんの前で初めてかけた曲は、Wild Cherryの「Play that Funky Music」でした。そしてFunkadelic「You'll Like It Too」〜Earth, Wind & Fire 「Getaway」と、ファンキーなナンバーからKC and the Sunshine Band 「That's the way」〜Ray Parker, Jr. 「IT'S TIME TO PARTY NOW」〜 Dan Hartman /RELIGHT MY FIRE とディスコ・クラッシックのナンバーを繋ぎ、Malcolm McLaren/Would Ya Like More Scratchin〜BOMB THE BASS /BEAT DIS、そしてM/A/R/R/SのPump up the Volumeへとハウス・ミュージックへ繋いで行きました。
イベントやパーティーに誘われてDJをしていました。そして、ZOOの店長・山下さんと色々な切っ掛けを作ってくれたDJの荏開津広から声がかかり、川辺ヒロシくんとの毎週土曜日「SUPER NINJA FREAKS」がスタートしました。この時、真のDJ TOSHIMIが誕生しました。
YouTubeチャンネル
俊美っ子倶楽部 配信開始
https://t.co/V7s7vdmpq8?amp=1
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