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宇治十帖のゆかりを歩く 2023/1/2横川【完結】

2023年1月2日。梅田駅近くのビジネスホテルで目を覚ます。今日の目標は一つに絞られている。宇治十帖の重要人物、横川僧都(よかわのそうず)のモデルとされる、「往生要集」の作者源信ゆかりの地をめぐること。

旅の最終日ということもあって、何となく慌ただしい。阪急電車に乗って終点の四条河原町で降りて、祇園を抜けて八坂神社に詣る。門前の老舗・中村楼で早めの昼食を取り、三条京阪駅まで歩く。

中村楼

三条京阪駅の中にブック・オフがある。大学生だった頃の私がよく本を買った店だ。今から行く横川の参考になろうかと、中村元「往生要集を読む」を買った。

中村元「往生要集を読む」講談社学術文庫、2013年

時間はないが、少し読んでみる。こういう時の読書は、私だけではないと思うが、前書きと後書きから読む。よろしくない読書法だと思うけれど、やむをえない。前書きと後書きには、多くの場合、著者の伝えたかったことが凝縮されている。それでたいていのことは理解できるし、理解できなかった所は後日、本文にあたればよい。

項目ごとに整理すると次のようになる。

1.往生要集とは?

『往生要集』は、源信自身がこの書の最初に述べているように、諸経論の中から浄土に関する要文をとり出して集めたものである。この書の全体の三分の二は、経論の文句の引用である(13頁)

2.往生要集の特徴は?

『往生要集』は、信仰をそのまま述べた書ではない。むしろ信仰に関する自分の疑問を、学問的に解決した書である(280頁)

3.著者の源信はどんな人?

源信は、天慶五年(九四二)に、卜部正親(うらべまさちか)の長男として大和国葛城郡に生まれ、七歳のとき父が亡くなり、九歳のとき比叡山にのぼって良源に師事した。自らは高い地位に登ることを欲せず、横川の恵心院に住し、ひたすら浄土に生れることを願って修行をつづけながら著作に従事した。世に恵心僧都とか横川僧都とよばれる。寛仁元年(一〇一七)、七十六歳でなくなった(16頁)

4.源信の個性とは?

源信はどこまでも理詰めである。合理主義的な議論を展開することによって自分の信仰を学問的な確信の境地にもたらしている。あるいは、学問的な論議によって自分の信仰を確立している、と言ってもよいであろう(281頁)

5.読者の反応は?

源信は学殖豊富で、論理も尖鋭である。こういうむずかしい漢文の書が、一般民衆のあいだに弥陀信仰を鼓吹したとは思われない。むしろ当時弥陀信仰が次第に一般化して行きつつあったために、教義学的にその位置づけが論議されつつあり、その社会的時代的必要に促されて、源信がこの書をまとめるに至ったのではなかろうか(283頁)

6.往生要集に籠めた願い

かれは『往生要集』の末尾でいう、
我もし道を得ば、願わくは彼を引摂(いんじょう)せん。彼もし道を得ば、願わくは我を引摂せよ。乃至、菩提まで互に師弟とならん。(三一九ページ)
「互いに師弟となろう」。驚ろくべき表現である!
こういう文句は、西洋には無かったはずである。何となれば、西洋には殆んど輪廻転生の観念が成立しなかったからである。西洋中世では現世においては、MeisterとSchüler(※注:ドイツ語。師匠と弟子)との関係、master-apprentice-relationship(※注:英語。師弟関係)は厳として存在し、逆にすることは許されなかったにちがいない。いわんや宗教教団においてはなおさらのことである。(284頁)

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検出されたエッセンスは、ざっとこんなものだ。原始仏教研究の大家である中村元の眼を通した往生要集、という留保は必要だが、旅の想像力を賦活する私の目的は、これで充分果たされたことになる。先を急ごう。

トヨタレンタカー三条京阪北店で、コンパクトカーを借りる。横川は、叡山電鉄とケーブルカーで行ける「いわゆる比叡山」(東塔地区と西塔地区)から、さらに山道を一時間以上も歩かなければならない奥地にある。東塔から周回バスが運行していることは、インターネットの情報で知っていたが、年末年始の営業については不透明だった。四条河原町駅の観光案内所に聞いてみた所、やはり営業していないと言うので、車に頼ることにしたのである。

その時の会話が可笑しかった。

私「あの、横川に行きたいのですが、バスは年始も営業していますかね?」
職員「・・・ヨカワ?」
私「ほら、あの、比叡山の奥の」
職員「ああ。ヨコカワですね。少々お待ちください」
(ごそごそと棚からファイルを探し出す)
職員「(分厚いファイルを開きながら)ヨコカワ、ヨコカワ、あ。残念ながら営業していませんね」
私「そうですか。・・・(念を押すように)比叡山の、ケーブルカーの、山頂駅のあたりから出ている、ヨカワゆきのバスですよね」
職員「はい、ヨコカワゆきのバスです」

観光案内所の職員ですら読み方を知らないほどに、観光地化されていないことが分かって、妙に安心する自分がいた。

所要時間は1時間弱といったところか。比叡山は車で行くと案外に近い。わずかに雪が積もっている道を少し歩くと、薫と横川僧都が会見した中堂が現れた。

この横川中堂ではじめて、僧都は浮舟の来歴を知ったわけだが、源氏物語の横川僧都と実在した横川僧都が、どのように重なるのだろうか?私には、そのことばかりが気にかかった。

中村元の描き出した源信像は、個人的には大いに共感できる。大宗教家と比べるのはおこがましいけれど、私もまた、確信(信仰)を得るために書く必要がある人間であり、すでに得た確信(信仰)を書くことに退屈を覚える人間でもある。しかし、いま問題になっているのは、実はそこではない。客観的な源信像ではなく、あくまでも紫式部が理解した源信像が問題なのである。

紫式部は一流の知識人で、日本書紀も白氏文集も読めた人だから、往生要集の漢文を読むことくらい苦にならなかっただろうが、源氏物語に描かれている源信は、どう見ても「往生要集の源信」ではない。横川僧都の人物像は、往生要集から抽出されたイメージとは言えない。なにせ、女一宮の看病の際、明石中宮に浮舟のことをポロっと話すような人である。薫との恋物語を知って、浮舟に還俗して復縁するように勧めるような人である。とうてい往生要集からは引き出せない人物像だ。

紫式部は実際に源信に会っている。親交があったとまでは言えなくても、少なくともたびたび見かけたはずである。なぜそう言えるのか?彼女の主人だった道長が源信を重用したからである。能筆家で知られる藤原行成の日記には、往生要集の書写を道長に依頼される記事がある。その年は奇しくも紫式部が雇用された1005年だった。道長が病を患った時、源信を指名して祈祷をさせた記録も残っている。

紫式部にとって、源信は往生要集の思想家ではなく、主人に近しい生身の人間だった。人間は思想を生み出すが、思想は人間と等しくない。当たり前のことだ。一流の知識人である以上に一流の観察者であった彼女が、源信をモデルに人物を造型する際に、実際に見聞きした人柄を考慮しなかったはずがない。往生要集の思想と、描かれた横川僧都の間に、ギャップがあることに不思議はないのである。

国文学者にはそれが分からない。話を単純化するために、なかば意図的に分かろうとしないのかも知れない。源氏物語の根本主題が浄土教の思想だって?笑わせてくれる。高尚な議論めかして、単に読めていないだけだ。あるいは、ギャップに気づけないほどに、己の視点に固執してしまっているだけだ。

本居宣長は「モデル問題」の不毛について、次のように斬って捨てている。

大かた準拠のことは、物語のあらゆる事を一々考へて、みなそれぞれになぞらへ当てんとするはわろし。ただ大やうにすこしづつの事を、より所にして、事のさまをかへて書ける事もあり。又かならず一人を一人にあてて作れるにもあらず。源氏一人の身のうへにも、むかしの人々のうへに有りし事を、和漢に求めて、一事づつとる事もあり。たしかに定まれる事はなき也。およそ準拠といふ事は、ただ作者の心中にある事にて、後にそれを、ことごとく考へあつるにもおよばぬ事なれども、古来沙汰有る事ゆゑ、其のおもむきをあらあらいふ也。緊要の事にはあらず
(岩波文庫版「紫文要領」18-19頁)

【現代語訳】
物語のあらゆることについて一々モデルを求めることはよろしくない。大まかに少しずつのことを拠り所にして、細かな描写を変えて書くこともある。また、必ずしも一人の登場人物に対して一人のモデルが対応するとは限らない。光源氏を例にとっても彼は、日本と中国を問わず、昔の人々の身の上に実際にあったことを、それぞれ取って来て合成された人物である。したがって、モデルが確定することはあり得ない。およそモデルというものは、ただ作者の心中にしかないことであって、読者がそれをことごとく考えて当てるには及ばないことだけれど、古くより当否の議論が絶えないテーマではあるから、以上にその趣のあらましを述べておいた。物語の読解する上で重要なことではない

つまり、モデルがいようがいまいが、そういう作者の内面にしか関わらないものについて、読者は考えるだけ無駄であると言うのだ。激しい表現だけれど、それは、それだけモデル論の弊害が大きいからである。現に、「源信モデル説」という視点から源氏物語の主題を「浄土思想」に見出だすのは、その好例である。率直な読解を妨げる色眼鏡ならば外した方がよい。

人っ子一人いない雪道を踏み分けてゆくと、「この先、恵心院」の標識を見つけた。源信が念仏三昧の修行に打ち込んだ建物で、私が今日一番楽しみにしていたものだ。高まる胸に足も速くなる。

恵心院 遠景

嗚呼、期待したよりさらに良い。何という清浄感か。ただ一つ、けちを付けるとすれば、右側に背の低い石碑が建っていることである。これは景観にとって邪魔でしかない。

どんなことが書かれているのか?

石碑は幻想を再生産する

「源氏物語」の横川僧都遺跡
紫式部の『源氏物語』には『法華経』をはじめ、比叡山が多く登場する。たとえば、「賢木」の巻では光源氏、天台座主から受戒、横川僧都により剃髪したとあり、「手習」の巻では入水した浮舟を横川の「なにがしの僧都」(恵心僧都)が助けており、「夢浮橋」の巻では薫が毎月根本中堂に詣でて、「経・仏など供養」したとある。『紫式部日記』には「院源僧都」の記述があり、『源氏供養表白』は天台の安居院作である。
題字 延暦寺執行 武 覚超書
撰文 勧学大僧正 渡邊 守順
平成二十二年十月吉日建之

宇治と石山で見つけた二つの紫式部像といい、この石碑といい、今回の旅は碑文を読む機会がやたらと多い気がする。それらが共通して「読者の文学史」の反映であることが興味深い。「天台の安居院」とあるのは、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した法印聖覚(1167-1235)のことであり、彼の作と伝わる「源氏供養表白」は、「紫式部堕地獄説」の源流となった文章である。すべて今回はじめて知った。要するに比叡山は、源氏物語の「誤読史」の発信地だったのである。

「源氏供養表白」の全文を見ることは別の機会に譲るけれど、末尾は注目に値する。源氏物語の各巻のタイトルに仏教の教義をこじつけた奇妙な文章が延々とつづき、最後にこうまとめる。

夢の浮橋の世なり。朝な夕なに來迎引攝を願ひ、南無西方極樂善逝、願はくは狂言綺語の誤を飜して、紫式部が六道苦患を救ひ給へ。南無當來導師彌勒慈尊、必ず轉法輪の縁として、これを翫ばん人を安養淨刹に迎へ給へとなり。

作者の源氏物語を作った罪。読者の源氏物語に魅了された罪。弥勒菩薩よ。彼等を地獄から救いたまえ。浄土へ誘いたまえ。・・・狂言綺語をもてあそんでいるのは作者だろうか?それとも読者だろうか?はたまた、仏教的な解釈で千年の誤読を招いた天台僧か?果たしてどうであろうか?

歩を進める。恵心院を間近に見る。広さは三間四方だろう。30㎡弱。・・・広めのワンルームだ。ここは念仏三昧の道場、集中力を最大限に高めるには、このくらいの狭さがちょうどよいのかも知れない。そんな、くだらないことを思った。

恵心院 近景

恵心院に籠って信仰を確立した高僧も源信なら、浮舟に恋を勧めた人間味あふれる男も源信である。そこに矛盾はない。むろんギャップはある。しかし、それは私たち現代人が源信を知る手段に「往生要集」しか持たないからである。紫式部が実際に観察して理解した源信は、源氏物語を読むことで何となく知られるだけだ。ギャップの存在にすら気づかずに、源氏物語の主題は浄土思想にあるなどとシャレたことを言って、得意になっている学者連中はおめでたい。

ただ、私は宣長ほど激しい言い方はしたくない。モデル問題が作者の内面にしか関わらないとの主張には全く同意するが、だからと言って「考えるだけ時間の無駄である」とは思わない。この4日間の旅は、文句なしに面白かった。よく考えてみれば、「聖地巡礼」など、いたる所でギャップに遭遇するものではないか?現実の宇治と物語の宇治は違うし、碑文に書かれた言葉が歴史の真実の姿とは限らない。ギャップに気づいて何を思うかが、肝心ではなかろうか?作者は聖地にどんな夢を籠めたか?ギャップに気づいて抱く違和感から、それを悟るのだ。つまり、モデル問題について考えることは、作者理解の一つの方法なのである。

車を返却して、路線バスで京都駅へ。これから夜行バスで東京に帰るのだけれど、酷使して疲れ果てた思考は、「今夜よく眠れることは約束されたようなものだ」という、面白くも何ともない感想から、一歩も前に進まなかった。

【完】


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