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行ったり来たりで、元気になる


民俗学や人類学を学んだ頃、共同体の境界線あたりに、人間は、色々と面白いものを作り出すのだということを知った。
日常の慣れ親しんだ世界と、未知の異界との間に、通り抜けたり、跨いだりする境界線がある。共同体を守ってくれる守り神がいたりする。実際に目に見えるような同祖神のような物を作ることもあったり、そこで儀式のようないつもと違う行動が行われたり。

それは、空間の境だったりもするし、日常の時間とまつりごとの時間の境みたいに、時間の境だったりもする。その境をあっちに行ったり、こっちに来たりをすることで、人々は何か生命エネルギーのようなものが増えるという経験をしていることも知った。つまり、元気になるということかな。そして取り戻した力で、また日常を生きていく。非日常と日常の往復。

子供の頃から、お祭りとか、どこかにお参りする時とか、そういうちょっと普段と違う何かを通して、私が感じていたことと、その理論は確かに合っていたから、うん、そうだねと納得できた。そして、この境界線を「行ったり来たり」が生きていくことには必要で大事なんじゃないかと、なんとなく感じて来た。なんでかはわからなかったけれど。

この頃は、村社会のようにみんなでお祭りを一緒に経験するとかいう仕組みの中にいる人は多くないかもしれない。それでもその人なりのやり方で、この「行ったり来たり」ということをいろんな形でやっているのかもしれないと思う。自分なりの日常と非日常の往復を作って、生命エネルギーを取り戻すという工夫。旅行とかコンサートとか、あるいは趣味に没頭する時間とか散歩するとか。

のちに意識のしくみを学んだときに、またこの「行ったり来たり」ということに出会った。自分が何かの創造物(例えば、ある思いや考え、人格とか)になったり、それになっていることをやめたりできるということを学んだ。そしてまた別の創造物(ある思いや考え、人格とか)になることもできるのだと学んだ。そして、それをする時、やっぱり元気になるのだ!

それは、お祭りの日やお葬式の時に私が感じていたことや、旅に出た時に感じていたこと、どんちゃん騒ぎをした時に感じていたことなど、たくさんのことをさらに明晰に説明してくれた。悲しくて大泣きした後に、晴れ晴れすることとかも。そして、子供の頃、おばあちゃんちの敷居や縁側という境界線にいることが大好きだったことも。

これからは、行ったり来たりで元気になる形は、ものすごく多様になるかもしれない。なので一人一人が使える知恵として、「行ったり来たり」が使えるといいんじゃないかと思っている。


関連ブログ
「境界線を行ったり来たりすること」https://note.mu/toshikokamada/n/nfccc77ff8424
「敷居と縁側」https://note.mu/toshikokamada/n/n0d43aaf720a2
「出たり入ったり再び」https://note.mu/toshikokamada/n/n4ca4705c8fa7

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