夫婦の神秘 きずな&みぞ 映画The Wife(天才作家の妻)を見て
何かと何かが出会うところに、きずなが生まれる時もあれば、みぞが生まれる時もある。
時を経ながら、その接点で、きずなとみぞが重なり合い、混じり合って、混沌とした複雑なものが生まれることもある。
海と山が出会ったリアス式海岸のように。
映画 The Wife(邦題は天才作家の妻 40年目の真実)を見て、昨日からそんなことを考えている。
どの文化にも、妻とは夫とは、というような社会的役割についての世代をこえて受け継がれる考えがある。東洋にも西洋にも、私たちがあまりなじみのないどこかの母系社会の中にもある。
「それはこういうものだ」という考えを自動的に採用したり、それに反発したり、心で反発しながらも従ったり。
無数のそういうもので、私たちの頭の中はいっぱいだ。
新しい考えを自ら取り入れたり、自分で創り出したりすることもあるだろう。
それでも、子供の時から今までにすでに、どういう理由であれ、採用しているたくさんの考えを持って、私たちは、また今日も誰かと出会う。
考えが同じか違うか自体が、きずなやみぞではないが、考えをもとに多様に反応しあって、きずなやみぞをほぼ自動的に創り出す。
そして、あとでそれを振り返って、作ったきずなやみぞを後悔したり、懐かしんだりする。
The wifeは、夫婦というものの謎と複雑さについての答えではなく、問いが湧いてくるような映画だった。
問いを一日反芻して、今日の私は、なぜか力が湧いている。
それは、その謎と複雑さを、それでいいのだと受け入れたからかもしれない。
全てのカップルは、全ての人と同様に、一つとして同じでない。
「カップルとはこういうものだ」と言えることなど何もない。
神秘であるまま、それはそれでいいのだと、まずは今の自分の夫婦関係を受容できたのかもしれない。
そんなことを書くのは、ちょっと恥ずかしい。
この映画で感じたもう一つの響きは、「尊厳」。
妻という立場にいる女性の個人としての生きがい、というのがストーリーの中では焦点があててあったものの一つだろう。
主人公の妻の中の「書く情熱」。女性が妻や母、嫁として、という役割以上の自己の存在意味を追い求める人生というものに、女性としての私は、もちろん大いに共感を持ってYES!とさけぶことができる。自分自身の人生を生きるという尊厳。
ただもう一つ感じたのは、「夫」の描写として描かれていた軟くて情けなく動物的な悲哀に満ちた存在の尊厳だ。ストーリーによっては、妻と夫は入れ替わるかもしれない。
どんなあり方にも尊厳を持って、人間の弱さも包み込むような優しい視点が、ラストシーンの主人公のまなざしとともに心に残っている。
とてもいい映画だと思う。見られた方は、感想など語り合えたら嬉しい。
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