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トム (ต้ม)」は煮る・ヤム (ยำ)」は混ぜる・ クン(กุ้ง)」はエビ


ー1990.septemberー


東京は表参道の裏通りあてもなく淡々と歩き回っている。
早く夕食にありつきたい、ただそれだけのこと。
それでも一人の食事はとても考えてしまう。
人の顔を合わせなくて済むカウンターかテーブル、お一人様用のレストラン。
一人でいることには全く気にならないのだけれど、寂しい気持ちになることは避けたい。

「ここはさっき通った道だったような…」
随分と奥の裏手の方まで入り込んでしまったようだ。
この辺りは、華やかな表通りとは違って細い路地からまた別の細い路地に、細かい道がいくつか交差している。

迷子になっているのかそれさえもまったく判らない。
灯りや看板照明を見つけては近づく、焼鳥屋、餃子屋、ビニール屋根の居酒屋、と言った具合だ。
一人酒は心が満たされない。
あれこれ巡らせていたその時、ふと少し先にある大きな看板が目に映った。タイ料理と書かれている。
色とりどりのポップなイラストと店先にある大きな像のオブジェが何とも愛嬌がある。また、料理も旨そうな気がした。
一人飯が多いと、こんな時の感は冴えてる。

ドアを開けた。
瞬間、スパイスや魚介の匂いがくっと鼻に刺さる。この匂いは美味いに違いない。
根拠のない自信ではあるけれど、間違いない!
狭い店内にはお客さん同士との距離が近くとても賑やか、それでいて嫌な感じは全くしない。
独特なリズムは伝統民謡というジャンルなのだろうかタイの音楽がながれている。

席につくと、壁一面のThailandと表記されている地図が目に入る。
『タイは最も素晴らしい!王様の国!!』と言わんばかりに堂々と存在している。
その地図に所々に手書きのサインが記されていて
それは不思議な記号のようなサイン。釘付けとなる。

地図の前には小さな棚があり、サイズ違いの像がいくつか並べてある。いや飾られてある。
入り口にもあった像を思い出した。
その対面にはフロアとキッチンの出入り口には
トロピカルなグリーン色のサテン素材の布で仕切られている。

この空間から感じる、色彩、音、匂い、造形もの、全てにインパクトがあることに気がつく。
これがタイの国なんだと想像した。まだ行ったことのない見慣れない世界に少し焦りながらも
気持ちは旅をしている。そして、タイの国を感じ始めてる。

テーブルに置かれてあるメニューを開いて見る
タイ語の文字が連なっているだけで料理の詳細が全く判らない。
皆のテーブルの上を見回すのだけれど、やはり判らない。

そこで何人かいるスタッフのなかで一際目立っていた彼を手招きした。
浅黒い顔からのぞくく白い歯、口元にある大きいホクロが何とも食をそそられる感じがしたからだ。
「お勧めは?」とたずねると

「コレ、トムヤムクン、オススメ、オススメ….トムヤムスープ、セカイデイチバン!オイシイ!」
と、そのメニューの文字を指しながら言う。

「あの…では、それ、そのトム何とか…….と、タイカレーを…」

彼の口元のホクロが絶対に美味しい!と言っているような気がしたのでトムヤムクンは迷わずに決めた。
と、先ほど何を頼むか悩んでた時に、周りの人が食べている料理、カレーらしきものも併せて注文をする。
(自信はなかったが、カレーだ)
その頃、アジア料理特有のスパイスのカレーは探せば存在していたかもしれないけれどみたこともきいたこともなかった。

注文を済ませた。
少し落ち着いたのか、
周りの目の視線や喋り声も、インパクトのあるもの含めて全く気にならなくなっていた。

なんだか気持ちは旅をしている。そして、タイの国を感じ始めてる。

先ほどの彼が料理を運んできた。
「コレ、トムヤムクン、オススメ、オススメ….トムヤムスープ、セカイデイチバン!オイシイ!」
先ほどと同じセリフだったけれど、自然と笑顔で返すことができた。
「ありがとう」

早速、トムヤムクンをひと口くちにする。
初めての味覚に、衝撃を覚えた。

なんと説明すれば良いのか全く言葉が見つからない。
さらに、店内が暑いからなのか、スープが熱いからなのか、スープが辛いからなのか、
理由はわからない、けれども身体のあちこちから汗が吹き出してくる。

強い辛味と強い酸味、と少し甘い。そして鼻を突く独特な香り。

美味しいとか、不味いとかそんなことではない。
黙々と食べる。汗は出る。辛い。酸っぱい、辛い……美味しい。
気がつくと、一気に食べ尽くしていた。
そのタイミングでタイカレーが運ばれてきたのだけれど、もう心はそれどころではない。
タイカレーはお持ち帰りにしてもらう。

「トムヤムクン、お願いします」

再び、トムヤムクンをオーダーする。
この味を忘れないためだと言う理由と、この場所を再び探せる自信が無かったからだ。
そして、このなんとも言えない味にすっかり嵌ってしまったのだ。


チラッと彼の顔をみた。
ほら、美味しいでしょ、と言わんばかりの満面の笑みで頷いていた。

タイ語は全くわからない、片言でもいいからとおもわず興味にかられ、先ほどの彼にスープについて、タイの国についてアレコレと質問をしてみた。
長い時間の会話だったような気がしたけれど、やはり理解の壁は厚い。
覚えているワードといえば、
トム (ต้ม)」は煮る、ヤム (ยำ)」は混ぜる、クン (กุ้ง)」はエビのことだとか、香りは、パクチーとナンプラーと言うハーブだと言う。
「メー、ノ、トムヤムクン ハ モット ウマイ」 
(メー= お母さん)
と、彼は懐かしむように話してくれた。

あの地図上の手書きのサインについても尋ねた。
来店されたお客さんやスタッフを訪ねてきた友人、または知人たちがこの地図に住んでいた町、生まれた町、家族が住んでいる町など、思い出深い場所に自分の名前を書いていくのだそうだ。
この地図の存在の理由がよくわかった。タイの人たちは家族のこと、そして国のことをとても誇りに思っている。遠い異国からこの地に来て、それでいて自分のルーツをとても大事にしてる。
深い想いのサインたち。
質問の返答は続く、
「ゾウ ハ タイ ノ トテモタイセツ マモリガミ セイナルイキモノ」

突然、横のテーブルに座っていたカップルが話し出す。
「イヤ、イヤ ボクノ ファェン ノ スープ モット モット ウマイ」(ファェン=彼女)
と彼女の目を見つめながら、自慢してる。
シャイだけれど、何処か否めない感じ。それと人なつこさが加わりとにかく温かい人たちとの会話はぎこちないキャッチボールに笑いがあった。

もう頭はすっかりとタイ一色になっていた。
本場のトムヤムクン (ต้มยำกุ้ง, Tom yum goong) を食べたい。

 閃いた!
『…タイに行こう!』

帰り際に、壁に貼っているThailandの地図に向かった。

彼にペンを借り、Bangkokと表記されてるところを指差し、書いていいかと尋ねた。
「イイデス、オッケーデス。 バンコク デ アイマショウ? デスカ? 」

Bangkokの文字の下に『ここに行く!』と日本語で書かせてもらった。

ふらっと入った店ではあったけれど、全てが満足だった。帰り際、ドアノブに手をかけようとしたそのとき、
「コープンカー」と何人かのスタッフの声。 
(コープンカー=ありがとう)

その声で振り向くと、先ほどの彼と目が合う
「ご馳走様、ありがとう」

「コープンカー」
「コープンカー」

彼は、手を合わせ何度も頭を下げていた。


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