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"いじり"の本質

"いじり"は一つのコミュニケーション行為である。
バラエティなどでも行われ、内輪関係による信頼関係にて、相手をからかうという意味での楽しさや、それによって相手を楽しませることが出来る技であるという意味では世間に広がっているだろう。

しかし、そのような弄りも一つ間違えればいじめと化す…。


例えば私はとても仲の良い友人Aをよく弄る…。
しかし、この弄りには理論立てて説明が出来る。以下、友人Aと同じくらい仲の良い友人をBとする。(尚、彼らは友達以上親友未満であるとする)

例えば以前のエピソードで
Aと友人になりたての頃のこと、
AはBと私が仲良く話をし、お互いが楽しみあっていたのを半年前から目の前で幾度となく見てきたにもかかわらず、まるで初めて見たかのように、
「Bと仲良いの?」
と言ってきたものなので、私は
「お前、じゃあ、私は半年間、Bの目の前で何やってるんだよ…() いや、どう考えたって仲良くなかったらそうはしないよ…()」
と言った。

事実、Aは天然な人なので、大体そういう抜けたところがよく目立つ。
そこで、彼の天然さによって生まれた誤りを的確に修正し、その上でA自身のその天然さを笑いに変えつつ、Aの良さを最大限まで引き上げる。

これが本来の弄りである。
弄りとは、それなりの間柄無しにできるわけではない…。


しかし、その行動もどちらかが険悪感を持っている時、もしくは関係性がない場合、それは冷やかしに切り替わる。

その人からしてみれば、弄って楽しんでいるようだが、相手側からしてみれば害悪以外の何ものでもない。
例えばあまり関係の良くない人同士が集まっている時、そのうちの一人が軽い失態をした。しかし、その失態を揚げ足をとるかのようにいじり倒し、自分たち自身だけが笑いに変えているというのはいじりではなくただの冷やかしだ…。

なぜか、
なぜ相手のミスで揚げ足をとる?
なぜお笑い芸人の丸パクリをすれば笑えると勘違いしているのか?
なぜ、人のアラを探しに行くのか?しかも特定の個人のみの…。


はっきり言わせてもらおう。
弄りはお互いが一定の関係になって初めて成立するものであり、それは冷やかしスタイルではなく相手の不忠を的確に修正し、かつ相手と調和を取ろうとする行為であり、信頼関係なくただの関係同士でやったところでそれは単なる冷やかしであり、一種の罵倒である。

はっきり言って、芸人間の弄りも本人達のそういう間柄ありきで行っているものであり、そんなのなくただ人を罵れば、それはただの冷やかしであり、番組は成立しない。

にもかかわらず、いじりの意味も知らないこの国の輩はなぜそこまで人をメッタメタにしたがるのかよく分からん。

はっきり言おう。
ノンスタイルの井上イジリも、石田が井上のことが大好きだからこそ行える。
世界の渡部のネタも、渡部さんとの信頼関係ありきであること。
マツコデラックスや有吉の弄りも、それはお互いの関係性ありきであって、好きでない人などそもそも弄りになどならない。
もっというと、マツコデラックスの場合は本当に弄り方を極めていると思う。事実マツコの弄りはそういう良さを分かってて、それを引き出そうとして出来るテクニックなのだ。
それは、マツコの挫折や物を見る価値観無くして成るものではない。

それを分からず、ひたすら弄り、人を弄ぶのは申し訳ないがただの冷やかしであり、刑事訴訟問題に絡めるとただの名誉毀損である。

だからこそ、弄りというのはそういう人間関係があってお互いが理解し合って初めて成り立つものであり、体をなしていないものなど弄りではない。

それをもう少し理解すべきであろう。

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