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『ブルースカイ』(1946年10月16日米公開・パラマウント・スチュアート・ヘイスラー)

ハリウッドのシネ・ミュージカル史縦断研究。5月22日(日)はビング・クロスビー&フレッド・アステアの”ソング・アンド・ダンスマン”による『ブルースカイ』(1946年10月16日米公開・パラマウント・スチュアート・ヘイスラー)をアマプラの字幕版(ジュネス企画版)でスクリーン投影。

この映画は、アステアの創意工夫の結晶、アーヴィング・バーリンの粋な名曲"Puttin' on the Ritz"「リッツで踊ろう」をトリッキにー踊るナンバーで知られる。1981年、アステアがAFI(アメリカン・フィルム・インスティテュート)で生涯功労賞を受賞した時のスペシャル番組のなかで紹介されて以来、恋焦がれていた。

いつか『ブルースカイ』を観たいと恋焦がれていた。テレビ放映は望むべくもなく、ビデオもアメリカでもなかなか発売されない。渋谷にすみやというミュージカルが充実した輸入レコードショップがあって、そこで入手したブートのサントラ盤(映像からナンバーを切り出したもの)を繰り返し、繰り返し聞いた。ようやく観ることができたのが、野口久光先生と色川武大さんによる、確か草月会館での上映会。個人蔵のフィルム上映のために字幕はなかったが、そんなことは大したことではない、『ブルースカイ』が観れるだけでまさに「天にも昇る心地」だった。上映前に、野口久光先生と色川武大さんの対談があり、それも貴重な機会となったが、とにかく全編を観ることができた時の感激! 1980年代の半ばだったと思う。

さて、1930年代初めから、シネ・ミュージカルの時代を、唄とダンスで牽引してきたリーディング・スターのビング・クロスビーとフレッド・アステア。二人が初共演をしたのが、ビングの「ホワイトクリスマス」を主題歌にフィーチャーした『スイング・ホテル』(1942年・パラマウント・マーク・サンドリッチ)。アーヴィング・バーリンの楽曲をふんだんに、二人の個性を最大限に活かした夢の企画。例えるならば、わが美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみが顔を合わせた『ジャンケン娘』(1955年11月1日・東宝・杉江敏男)のような映画ならではの企画。

『ブルースカイ』の日本での公開は、昭和30(1955)年4月1日。なので『ジャンケン娘』の企画に影響を与えたのかもしれない。ともあれ映画ならではのビッグ・イベント。しかも今回はテクニカラーの大作。この時、フレッド・アステアは45歳、ビング・クロスビーは43歳。キャリアの絶頂期であり、円熟の時を迎えていた。

『スイング・ホテル』同様、アーヴィング・バーリンの楽曲を次々と紹介しながら展開していくスタイルの「ソングブック」映画として企画された。主題歌”Blue Skies”「ブルースカイ」は1926年に、バーリンが、ロジャーズ&ハートのミュージカル”Betsy”の追加楽曲のために作詞・作曲、ベリー・ベイカーが歌ったが、ショーは39回でクローズドとなってしまった。1927年に楽譜が出版され、アル・ジョルスンが初のトーキー・ミュージカル『ジャズ・シンガー』(ワーナー)で歌ってスタンダードとなった。バーリンにとっては思い出深い曲。

1994年だったか、初めて高島忠夫さんにお目にかかったときに、高島さんから「なんでブルースカイって、英語ではブルースカイズなんやろね。空は複数形なのかな?」と質問された。高島さんへのインタビューなのに、いつしかミュージカル談義になっていた。それから高島忠夫さんとのお付き合いが始まった。そんな思い出もある。

ポスターヴィジュアル

さて映画『ブルースカイ』である。当初、主演のダンサーは、伝説のタップ・ダンサー、ポール・ドレイバーが予定されていたが、ポールがヒロイン役のジョーン・コールフィールドのダンス能力に批判的だったために降板。すでに引退を決意していたフレッド・アステアが登板することになった。

アステアはブロードウエイで姉・アデールと踊っていた頃から四半世紀のキャリアを持ち、1930年代、RKOでジンジャー・ロジャースとのコンビでハリウッド・ミュージカルのアイコンとなった。第二次大戦後、それまでコンスタントに映画主演を続けてきたものの、ビッグバンドによるスイング時代が終焉を迎えつつあり「そろそろ潮時」と考えていた。ダンススクールを経営して後継者を育てていこうという気になっていたのである。

おそらく引退を決意した直裁的な原因は、MGMで主演したアーサー・フリード製作の野心的なミュージカル『ヨランダと泥棒』(1945年・ヴィンセント・ミネリ)の興行的な失敗が大きい。アーティストとして様々なアイデアを映画のナンバーに昇華させてきたが、現場も含めて作品そのものが迷走。それはフリードが、自らの愛人・ルシル・ブレマーのキャリアのための「ゴリ押し」企画でもあった。批評家からは「シャンパンの代わりにエッグノック」のような映画と、アステア映画の「粋」が生かされていないと散々だった。

ヒロインのジョーン・コールフィールドは、アステア&ロジャース映画を手がけてきたマーク・サンドリッチ監督の秘蔵っ子。サンドリッチは当初、本作の演出を担当することになっていたが、製作準備中に心臓発作で倒れて亡くなってしまった。そこでスチュワート・ヘイスラーが引き継ぐことになったが、ヘイスラーはコールフィールドが気に入らず、他の女優に換えようとしたが、ビング・クロスビーが彼女を守り、ヒロインを演じることになった。

といった紆余曲折を経て、最終的にキャスティングがフィックスされた。コメディ・リリーフには、パラマウント映画ではお馴染み、芸達者のビリー・デ・ウルフ。僕らの世代ではドリス・デイ主演のドラマ「ママは太陽」(1969〜1973年)のジャービス氏のイメージが強い。またミュージカル・シークエンスのサポートとして、キュートなオルガ・サン・ファンが出演。ビリー・デ・ウルフのガールフレンドとして、映画に華を備えている。

『スイング・ホテル』同様、いかにバーリンの楽曲を生かすか、ビング・クロスビーとアステアの見せ場をどう盛り込んでいくか。それがこの映画の要でもある。登場する楽曲は22曲! インストも含めると劇中に流れるバーリンの楽曲を加えると32曲。まさに「ソングブック映画」である。

パラマウントのアド

怪我でダンサーを引退したジェド・ポッター(アステア)が、ラジオのパーソナリティとして、二つの世界大戦の間、親友だった歌手でナイトクラブのオーナー、ジョニー・アダムス(クロスビー)と、かつての恋人・メアリー・オハラ(ジョーン・コールフィールド)との日々を、番組のなかで語っていく。それぞれの恋と行き違い、そして別れが、ミュージカル・ナンバーを交えて、ドラマチックに展開していく。

『ラヂオは笑ふ』(1932年)に始まるパラマウント名物”Big Broadcast”「大放送」シリーズのような構成である。番組のラスト、仲違いしていた主人公たちが、生放送で再会するハッピーエンドは、のちにアステアとレッド・スケルトン、ヴェラ=エレンの『土曜は貴方に』(1950年・MGM)でも使われる「手」でもある。

ラジオの人気パーソナリティ、ジェッド・ポッター(アステア)が、自分自身の”トゥルー・ストーリー”の放送を始めた。第一次世界大戦後、ジェドはブロードウェイで大成功。ステージの千秋楽で、ゴージャスなセット、美しいコーラスガールを従えて”A Pretty Girl Is Like a Melody”(1919年)を踊る。そのパートナー、若手のメアリー・オハラ(コールフィールド)に夢中のジェドは、彼女をなんとか口説いて、ナイトクラブへ誘うことに成功。

そのナイトクラブは、かつてジェドのステージ・パートナーだったジョニー・アダムス(クロスビー)が、軍隊時代の上官で今は部下のトニー(ビリー・デ・ウルフ)をマネージャーに経営していた。ここでビングが軍服姿となり、ナイトクラブのショーが始まる。トニーとの経緯をコミカルに歌った”I've Got My Captain Working for Me Now”(1919年)は、第一次大戦で出会った上官のジョニーがいまや、自分のマネージャー、という日常を面白おかしく歌っている。

メアリーは、その夜地方巡業に出る予定だったが、ジョニーに惹かれた彼女は、ニューヨークに止まり、ジェドの新作舞台に出ることにする。ここからメアリーをめぐってジェドとジョニーの三角関係の物語が展開していく。ジョニーは「ナイトクラブ道楽」ともいうべき癖があり、店が順調になると手放して、さらに大きな店を手に入れたくなる。なので登場シーンごとに、新しいナイトクラブのセットが次々と出てきて、そこでビング・クロスビーが様々な楽曲を歌っていく。

ロビーカード

また、ジョニーとメアリーが、恋に落ちた瞬間に唄う”All by Myself”(1921年)は、ビングとコールフィールド(吹替:ベティ・ラッセル)のデュエットも楽しめる。しかしジョニー「ナイトクラブ道楽」で心ここにあらずと知ったメアリーはいったんジョニーと別れ、ジェドとステージに立ち続ける。

ジェドは、ブロードウェイのトップスターなので、メアリーをパートナーに華やかなステージを展開していく。一流のパフォーマーとなったメアリーがステージで"Serenade to an Old-Fashioned Girl"(1946年)を唄う。この曲はコールフィールドのためにアーヴィング・バーリンが書き下ろした新曲である。

もちろんソロもある。前半のハイライトは、なんといっても”Puttin' on the Ritz”。トップハットにタキシード、ステッキのスタイルのアステアが、粋にリズミカルに歌い出し、踊り出す。で、途中で後ろの鏡の扉を開くと、何と8人のアステアがラインナップされて、合わせて9人のアステアが超絶タップを展開してくれる。『トップハット』(1935年・マーク・サンドリッチ)で、トップハットにホワイトタイのアステアが、同じスタイルのコーラス・ダンサーを従えて踊る「トップハットにホワイトタイ」のナンバーをさらに深化させた究極のナンバー。映画でしか表現できない、ダンス・ナンバーを!というアステアのポリシーが凝縮した奇跡の瞬間である。

一方、ジョニーがナイトクラブで、ニタ・ノヴァ(オルガ・サン・ファン)を相手に派手なスペクタクルナンバーを展開する”I'll See You in C-U-B-A”(1920年)も楽しい。禁酒法時代、ニューヨークでは酒が飲めない、でも酒が飲めるパラダイスがある。それがキューバ、誰もが陽気にラテンのリズムを踊る。といったナンバーで、カラフルな衣裳、セットがハリウッドのラテンイメージを増幅させて、これも楽しい。

こうして月日が流れ、ある日、ジェドとメアリーの新作舞台のリハーサルに、ジョニーが顔を出す。メアリーへの想いやみがたく、である。そこで昔馴染みのピアニストから「これ覚えてる?」と弾かれたフレーズをきっかけにジョニーとジェドが久しぶりに昔を思い出して、コミカルなデュエット”A Couple of Song and Dance Men”(1946年)を歌って踊る。歌のビング、踊りのアステア!『スイング・ホテル』での"I'll Capture Your Heart"にあたる二人の個性を最大限に活かしたヴォードヴィル・ショー・スタイルのナンバーは、まさに眼福。この映画のハイライトの一つである。

そこで、ジョニーと再会、自分の気持ちに気づいたメアリー。ジェドの想いを断ち切り、メアリーはジョニーと結婚。新婚のピクニックで、ジョニーがメアリーに甘く囁くように唄う”Blue Skies”(1926年)の楽しさ。そして本作のためにアーヴィング・バーリンが書き下ろした新曲”You Keep Coming Back Like a Song”(1946年)は、ビングにとっても最大の見せ場。この曲は1946年度アカデミー賞「最優秀主題歌賞」にノミネートされたが、MGMミュージカル『ハーヴェイ・ガールズ』(1946年・未公開)で、ジュディ・ガーランドが歌った"On the Atchison, Topeka and the Santa Fe"(ハリー・ウォレン&ジョニー・マーサー)に惜敗してしまった。

さて、せっかくの娘が生まれたものの、ジョニーは家庭に腰を落ち着けることなく「ナイトクラブ道楽」に愛想が尽きたメアリーは離れて別居。やがて離婚することに。やがて、ジョニーは、各地で様々なスタイルのナイトクラブを経営していく。ジェドのラジオでのトークにのせて、展開される「ナイトクラブ・モンタージュ」がまた楽しい。”The Little Things in Life”(1930)〜”Not for All the Rice in China”(1933)〜”Russian Lullaby”(1927)。セットも凝っていて、針生度映画の底力、ゴージャスさを味わうことができる。

ナイトクラブでのパフォーマンスでは”Everybody Step”(1921年)もなかなかのスペクタクル・ナンバー。指揮棒を持ったビングが、大勢のダンサーたちを自在に操りながら「みんなでステップを踏もう」とマエストロよろしく歌い上げる。この曲は、のちにアステアのエミー賞受賞のテレビショー”An Evening with Fred Astaire”「今宵フレッド・アステアと」(1958年)のオープニングで、本作の振り付けを手がけたアステアのパートナー、ハーミーズ・パンによってリフレインされた。

また女性コーラスとビングが唄う"How Deep Is the Ocean?"(1932年)もバーリンの名曲。ことほど左様にナイトクラブ・シークエンスは、まさに「アーヴィング・バーリン・ソングブック」として楽しめる。

それから数年、シカゴでナイトクラブを経営しているジョニーのもとに、ジェド&メアリーと舞台を踏んでいるニタ・ノヴァ(オルガ・サン・ファン)が「メアリーに会って欲しい」と現れる。メアリーの泊まっているホテルを訪ねるジョニーは、成長した娘(キャロリン・グリムス)に「歌って」とせがまれて子守唄を唄う。この”(Running Around in Circles) Getting Nowhere”がなかなかいい。

ジェドはメアリーとようやく婚約にこぎつけたものの、メアリーのジョニーへの愛を知って、自ら引き下がることに。それから深酒となり、楽屋でもステージの直前まで飲み続けて、足元がフラフラ。心配するメアリーは酒をやめさせようとするが、ジェドは頑なになってしまう。『踊るニュウヨーク』(1940年)で、アステアとエレノア・パウエルの仲に嫉妬したジョージ・マーフィーが楽屋で深酒してしまう、あのパターンのリフレインでもある。

いよいよクライマックスのナンバー”Heat Wave”(1933年)の幕が開く。南米、キューバのイメージのセット。ステージにはオルガ・サン・ファンが登場。カルメン・ミランダのような出立ちでホットなナンバーを唄う。そこへ船員スタイルのアステアが現れて、オルガをパートナーにステップを踏む。アステアのステップは『ヨランダと泥棒』(1946年)"Dream Ballet"のルーティーンのリフレインでもある。ステージは二階建てになっていて、上のブリッジでオルガを相手にクルクル回って、決めポーズでブレイク、を繰り返していく。このリズムに合わせて決めポーズのパターンが『ヨランダと泥棒』のスタイルを踏襲している。

しかし泥酔したジェドは、距離感が掴めずに、ブリッジから落下。ナンバーは中断、幕が降される。ここでジェドは致命的な怪我を負って、ダンサー生命を絶たれてしまう。この”Heat Wave”は、のちに、FOXが鳴り物入りで製作した、バーリンのソングブック映画、シネマスコープ大作『ショウほど素敵は商売はない』(1954年)でマリリン・モンローが歌って踊ることとなる。

この事故をきっかけに、ジェドとメアリーのステージ・パートナーは解消。ジョニーとも疎遠になってしまう。やがて第二次世界大戦、ジェドはラジオ・パーソナリティとなり、ジョニーは、戦時国債の販売キャンペーンや兵士慰問団に参加、得意の歌を活かして国策に協力していく。このあたりは、戦時中のビング・クロスビーが果たした役割の映画でのリフレインでもあり、これを拡大するとダニー・ケイとビングのヴィスタヴィジョンによるバーリンのソングブック映画『ホワイト・クリスマス』(1954年・パラマウント)となる。

ジェドのディスクジョッキーで、次々と大戦中のジェドの慰問パフォーマンスがモンタージュされる。「ウォー・タイム・メドレー」である。バッグス・バニーの短編映画の主題歌”Any Bonds Today?”(1941年)〜ロナルド・レーガン主演でワーナー映画化された”This Is the Army, Mister Jones” (1942年)〜そして『ホリデイ・イン』でビングが唄った”White Christmas”(1942年)。いずれも戦時下のヒットソングである。

そして現在、ジェドのラジオでの”トゥルー・ストーリー”はいよいよ大団円。果たして、ジョニーは、それ以来会っていないとジェド。バックに流れるのはバーリンの”Always”。やがてメアリーがステージで歌った想い出の"Serenade for an Old-Fashioned Girl”となる。スタジオに現れたメアリーの歌声(吹替:ベティ・ラッセル)がクライマックスに達すると、ジョニーの姿も! メアリー、ジョニー、ジェドのリユニオンである。客席には、結婚したトニーとニタの姿も。こうして長い長い、ジョニー、メアリー、ジェドの3人の物語はハッピーエンドで終わる。

この映画のクランクアップの瞬間。「これで引退だ!」とアステアは、ヘアピースを外したというエピソードがある。アステアの引退作に相応しいセンチメンタルなドラマ、そして見せ場もたっぷりのシネ・ミュージカルの佳作となった。これから二年間、アステアは引退生活を満喫。しかし、1948年のある日、ジーン・ケリーから電話がかかってくる。「ケガをした僕の代役をつとめて欲しい」。それがジュディ・ガーランドとの『イースター・パレード』(MGM・チャールズ・ウォルターズ)へのオファーだった。アステアは、これを快諾。そこから十年間、フレッド・アステアは50代後半にかけて精力的にシネ・ミュージカルに主演。幾多の名作を送り出すこととなる。

【ミュージカル・ナンバー】

♪美しい女性は音楽のよう A Pretty Girl Is Like a Melody (1919)

作詞・作曲:アーヴィング・バーリン
*唄:フレッド・アステア ダンス:アステア、ジョーン・コールフィールド、コーラス

♪僕は上官と今も仕事を I've Got My Captain Working for Me Now (1920)

*唄:ビング・クロスビー

♪ユード・ビー・サプライズド You'd Be Surprised(1919)

*唄:オルガ・サン・ファン

♪オール・バイ・マイ・セルフ All by Myself (1921)

*唄:ビング・クロスビー、ジョーン・コールフィールド(吹替:ベティ・ラッセル)

♪セレナーデ・トゥ・オールド・ファッションガール
Serenade to an Old-Fashioned Girl (1946)

*唄:ジョーン・コールフィールド(吹替:ベティ・ラッセル)、男性コーラス

♪リッツで踊ろう Puttin' on the Ritz (1930)

*唄・ダンス:フレッド・アステア

♪貴方をキューバで見かけた I'll See You in C-U-B-A(1920)

*唄:ビング・クロスビー、オルガ・サン・ファン

♪カップル・オブ・ソング・アンド・ダンスマン
A Couple of Song and Dance Men (1945)

*唄・ダンス:フレッド・アステア、ビング・クロスビー

♪ユー・キープ・カミング・バック・ライク・ア・ソングYou Keep Coming Back Like a Song(1943)

*唄:ビング・クロスビー、コーラス

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♪ブルースカイ Blue Skies(1927)

*唄:ビング・クロスビー

♪ザ・リトル・シングス・イン・ライフ
The Little Things in Life(1930)

*唄:ビング・クロスビー

♪ノット・フォー・オール・ザ・ライス・イン・チャイナ
Not for All the Rice in China (1933)

*唄:ビング・クロスビー

♪ロシアン・ララバイ Russian Lullaby (1927)

*唄:ビング・クロスビー

♪みんなでステップ Everybody Step(1921)

唄:ビング・クロスビー ダンス:コーラス

♪海の深さはどれくらい? How Deep Is the Ocean?(1933)

唄:ビング・クロスビー、コーラス

♪ゲッティン・ノーウェア (Running Around in Circles) Getting Nowhere (1945)

唄:ビング・クロスビー

♪ヒート・ウェーブ Heat Wave

唄:フレッド・アステア、オルガ・サン・ファン
ダンス:フレッド・アステア、オルガ・サン・ファン、コーラス

♪国債を買いましょう Any Bonds Today? (1941)

唄:ビング・クロスビー

♪ディス・イズ・アーミー This Is the Army, Mister Jones (1942)

*唄:ビング・クロスビー

♪ホワイト・クリスマス White Christmas(1942)

*唄:ビング・クロスビー

♪オールウェイズ Always (1925)

*唄:コーラス

♪セレナーデ・オブ・オールド・ファッション・ガール
Serenade for an Old-Fashioned Girl

*唄:ジョーン・コールフィード(吹替:ベティ・ラッセル)


よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。