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        佐藤利明(娯楽映画研究家)

 1950年代末から60年代初頭、昭和でいうと昭和34年から昭和40年代にかけて、吉永小百合と浜田光夫の純愛コンビを中心にした、明朗青春映画が数多く作られ、ティーンの観客を中心に多くの人々の支持を受けていた。これらの作品を支えたのは、高度経済成長のニッポンで、勤労にはげみ、青春を謳歌していた若者たちだった。

 日活の青春映画といえば、吉永小百合と浜田光夫、ということになる。そのスタートといえるのが、石坂洋次郎原作の『草を刈る娘』(1961年・西河克己)だろう。吉永にとっても本格的な主演第一作となる映画で、既にセックスの問題が文字通り健康的に描かれている。「おらぁ、子供をいっぱい産んで、からからと枯れた年寄りになりてぇ」と津軽言葉で言うヒロインの屈託のなさ。

 この映画が作られた昭和36(1961)年。アメリカではジョン・F・ケネディ大統領が誕生。東ドイツが東西ベルリンの境界線を封鎖、いわゆるベルリンの壁が作られ、東西冷戦が深刻化しつつあった時代。日本では来る東京オリンピックに向けて、高度経済成長の時代を迎えていた。「レジャー」「交通戦争」「ブーム」「C調」「ありがたや」といった言葉が流行語となっていた。

 そうしたなか、スクリーンの吉永小百合は、可憐で清純で、若い生命力に溢れていた。『キューポラのある街』(1962年・浦山桐郎)のジュンは、若さとポジティブな生き方で、貧しさや家庭の問題に立ち向かっていた。『赤い蕾と白い花』(1962年・西河克己)の高校生・とみ子は、自分の母とボーイフレンドの父との交際に、嫉妬しながらも、それを受け入れようとする。

 スクリーンの吉永小百合は常にポジティブ。男の子にだって、自分の意見を平気で言う。時には「キスをして」と自ら迫るし、セックスへの好奇心も隠さない。当時の等身大の若者というより理想像でもあった。こうした“理想の青春”は、原作者や企画者、脚本家、監督たち映画の作り手が、吉永小百合と浜田光夫に託したものであり“大人は判ってくれない”という若者の気持ちを、作り手である大人たちが代弁していたことになる。これが日活青春映画のエネルギーの原点であり、魅力でもある。吉永小百合は、自らの若さとエネルギー、そして天性の魅力で見事にそれをスクリーンで演じて見せた。

 その魅力はリアルタイムに映画を見ることのできなかった、後から生まれた世代にも、映画を通して伝わってくる。いつの時代にも、日活青春映画の吉永小百合はその光を放ち続けている。

 一方、1962(昭和37)年に、「いつでも夢を」でレコード大賞を受賞し、歌手としても作曲家・吉田正の門下生の吉永小百合の歌声が、日活青春映画では楽しむことが出来る。『いつでも夢を』(1963年・野村孝)は、そうした吉田メロディのショーケースのような歌謡映画。流れる歌声に、明るいメロディに、昭和三十年代の若者の息吹が感じられる。

 映画のなかの吉永小百合は、実際の彼女がそうであったように、一作ごとに成長し続ける。文芸映画『伊豆の踊り子』(1963年・西河克己)でみせた少女の憂い。純愛映画『愛と死をみつめて』(1965年・斎藤武市)で死を前にしながら、愛する悦びを知った少女の暖かい気持ち。どの映画にも名場面があり、どの映画にも観客を魅了する美しさに溢れている。

 昭和40年代の吉永小百合映画は、映画で演じてきたポジティブな少女がそのまま大人になったかのように、自分の意見を持った女子大生や、『大空に乾杯』(1966年・斎藤武市)の客室乗務員のように、職業を持った自立する女性へと変貌を遂げていく。映画のなかで、彼女は酒を飲み、酔っぱらい、羽目を外すチャーミングなところも見せてくれる。ボーイフレンドを「キミ」と呼んで、説教をすることもある。そのいずれも、観客にとっては『草を刈る娘』や『白い蕾と赤い花』のヒロインが成長している姿にも見える。

 昭和40年代末“サユリスト”という言葉が流行し、吉永小百合ファ ンを公言する人々が出てきたのも必然だろう。みんなスクリーンの 吉永小百合が好きだったのだ。少女はいつしか大人になり、観客も また吉永小百合とともに、長い時間を過ごしてきた。『母べえ』(2008年松竹・山田洋次)で、彼女が演じたヒロイン“母べえ”は昭和の母であるが、その美しさと存在感は変わる事なく、ますます光彩 を放っている。

 吉永小百合はいつまでも吉永小百合であり続ける。われわれにとって昭和がという時代の記憶が永遠であるように・・・。

2008年2月発売日活DVDへの寄稿文


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