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娯楽映画の昭和史〜石原裕次郎と日活アクションの黄金時代

【裕次郎の時代の幕開け】
 昭和31(1956)年、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したこの年。兄・石原慎太郎が、一ツ橋大学在学中に書いた「太陽の季節」で第34回芥川賞を受賞。日活が映画化権を獲得した。

 昭和29(1954)年、製作再開を果たした日活は、“信用ある日活映画”をキャッチコピーに、田坂具隆、滝沢英輔などの名匠、川島雄三などの異才による才気あふれる文芸作品やメロドラマを中心に良質な作品を製作していた。ところが興業的にはふるわずに、給料の遅配も日常的となっていた。そうしたなか、戦後派若者の無軌道な青春を描いた「太陽の季節」は原作発表時から、センセーショナルな話題であり、映画化に大きな期待が寄せられていた。

 その映画化交渉に、交渉役として兄・慎太郎に同行してきたのが、裕次郎だった。まだ慶應大学に通う大学生に、日活関係者は大器を感じた。慎太郎の芥川賞受賞パーティで、裕次郎を見初めていた水の江滝子プロデューサーも同じ印象を持っていた。

 その裕次郎が、日活撮影所を訪れたのは昭和31年3月28日だった。『太陽の季節』(古川卓巳監督)のための“当世若者言葉の指南役”であり“髪形モデル”として、だった。ところが、ロケ先で現場を手伝う裕次郎の振る舞いを見ていたベテランキャメラマン・伊佐山三郎は、水の江を呼んで「このファインダーの向こうに坂妻(坂東妻三郎)がいるよ」と囁いた。古川卓巳監督はじめ撮影所のスタッフからそのルックスと雰囲気を買われ急遽映画への出演が決定する。

 「日活五十年史」(1962年)によると、裕次郎は昭和31年4月1日に日活へ入社している。クランクインの一週間後である。天性のプロデューサーだった水の江は、正真正銘の「太陽族」である裕次郎を、来るべき時代の日活スターとして見いだしたのだろう。わずか数シーンの出演にもかかわらず、まだ素人同然だった裕次郎の存在感は圧倒的だ。その立ち振る舞いには、スターとして資質が感じられる。伊佐山の言葉を聞いた、水の江のもくろみ通り、『太陽の季節』を観た観客は、石原裕次郎を発見することになる。

 その風貌、長身痩躯のスタイルと堂々たる風格を、日活は見逃さなかった。『太陽の季節』5月17日公開前に、水の江滝子は、慎太郎に「裕ちゃん主演で映画を撮りたいから」と原作を依頼する。それが出演二作目にして初主演となる『狂った果実』(中平康監督)だった。ヒロインには、裕次郎の希望で、松竹から移籍してきた日活のトップ女優・北原三枝。

 入社から二週間目の4月14日、日活撮影所第4ステージで、裕次郎は北原と初対面した。北原は、そのときのことを「真っ白な背広を来た男の人が、太陽に向かってどんどん歩いていく。その時ことをよく覚えています。プラチナを粉にして、空から天使がキラキラを蒔いているような、太陽の光が燦々と、真っ白いスーツを着た裕さんの後ろ姿に注いでいるわけです。その姿が、印象的で、忘れられません。」と回想している。

 こうして、映画スター裕次郎は颯爽と銀幕に登場。8月には「狂った果実/想い出」でテイチクからレコードデビューを果たしている。歌手・石原裕次郎もここからスタートしたのである。

【年譜】
・ 昭和9年12月28日 神戸市須磨区大手町に生まれる。
・ 昭和31年5月 『太陽の季節』裕次郎の登場
・ 昭和31年7月 『狂った果実』映画初主演。主題歌でレコードデビュー。
・ 昭和35年   日活ダイヤモンドラインに参加
・ 昭和35年12月 北原三枝と結婚
・ 昭和38年1月  石原プロモーション設立
・ 昭和40年9月  全国縦断リサイタル
・ 昭和43年2月 『黒部の太陽』ロードショー
・ 昭和46年1月 『男の世界』最後の日活映画公開
・ 昭和47年7月 「太陽にほえろ!」(NTV)スタート
・ 昭和51年1月 「大都会−闘いの日々−」(NTV)スタート
・ 昭和54年10月 「西部警察」(ANB)スタート
・ 昭和56年4月  撮影後倒れる。解離性大動脈瘤Ⅰ型と診断。
・ 昭和59年10月 「西部警察PartⅢ」最終回
・ 昭和61年11月 「太陽にほえろ!」最終回
・ 昭和62年2月  ♪わが人生に悔いなし ハワイでレコーディング
・ 昭和62年7月17日 永眠

佐藤利明著「石原裕次郎 昭和太陽伝」(アルファベータブックス)


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