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トニーの魅力を最大限に引き出した「拳銃無頼帖」シリーズ

 赤木圭一郎。1958(昭和33)年8月、日活第四期ニューフェースとして入社。石原裕次郎の『紅の翼』(1958年・中平康)の記者役など十数本の端役や脇役として出演。本名・赤塚親弘。赤木圭一郎という芸名は『群衆の中の太陽』(1959年)の井上梅次監督が命名。『素ッ裸の年令』(1959年・鈴木清順)で初主演、裕次郎とは『清水の暴れん坊』(1959年・松尾昭典)と『鉄火場の風』(1960年・牛原陽一)で連続共演。ニューフェース時代に、その甘いマスクがハリウッドの二枚目トニー・カーティスを思わせることから、西河克巳監督が愛称「トニー」と名付けたという。

 その甘いマスクと物怖じしない風格で人気が上昇、1960年2月14日公開『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』からダイヤモンドラインに参加。折からの石原裕次郎、小林旭によるアクション映画の好調を受け、裕次郎、旭、赤木、和田浩治の四大スターの主演映画を中心にしたラインナップをダイヤモンドラインと呼び、その主演作をローテーション的に次々と製作。宣伝部はそれを“ピストン作戦”と命名した。

 赤木は、裕次郎、アキラに続く“第三の男(サードマン)”として、1960年2月から翌1961年2月にかけて13作連続主演。ダイヤモンドラインによるアクション映画の隆盛により、日活映画は新たな黄金時代を迎えることとなる。

 しかし赤木圭一郎は、1961年2月14日、ケガで降板した石原裕次郎のピンチヒッターとして主演することとなった『激流に生きる男』撮影中のセールスマンが持参したゴーカートに試乗している時、日活撮影所大道具工作場の壁に激突。一週間後の2月21日、還らぬ人となった。享年21歳。あまりにも早すぎる最期だった。しかし、それゆえに赤木圭一郎は、日本映画界の伝説となり、今なお新しいファンを生み続けている。

 そのトニーの唯一のシリーズとなった「拳銃無頼帖」は、ライバル宍戸錠との奇妙な友情、魅力的な悪役たち、そして可憐なヒロインの慕情など、日活アクションの条件をすべて満たし、娯楽映画の楽しさにあふれている。抜き射ちの竜』(1960年2月14日公開)、『電光石火の男』(5月14日)、『不敵に笑う男』(8月6日)、『明日なき男』(12月3日)の四作からなる。

 およそ3か月に一本のペースがゆえに、通して観るとトニーの俳優としての成長ぶりがはっきりとわかる。第一作から最終作までの10ヶ月で、スターとしての風格、そして独特のムードがより研ぎすまされたものになっているのだ。



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