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石原裕次郎と日活アクションの黄金時代 1956〜1971 GOLDEN YEARS


佐藤利明(娯楽映画研究家)
 
 戦後ニッポンを象徴するヒーロー石原裕次郎。長身痩躯、精悍なマスク。人懐っこい笑顔の中に秘めたエネルギー。それまでの銀幕のスターのような神秘性というより、どこにでもいる好青年という雰囲気で、人々は「裕ちゃん」と親しみを込めて呼んだ。昭和30年代から40年代にかけて、日活のスクリーンで数々のアクション映画に主演、タフガイの愛称で、小林旭、赤木圭一郎らと共に日活ダイヤモンドラインのトップとして、日活映画黄金時代を駆け抜けた。

 慶應大学の学生だった石原裕次郎が日活入りするきっかけとなったのが、兄・石原慎太郎の芥川賞受賞作品「太陽の季節」の映画化だった。昭和30(1955)年夏、23歳の一ツ橋大学生・石原慎太郎が「文学界」に発表した「太陽の季節」は、弟・裕次郎から聞いた奔放な大学生たちのエピソードを基に描いた、若い世代の“逆説的な愛の物語”。その過激な性描写、戦後の新しい世代のアンモラルな風俗描写は、センセーショナルな話題となり、賛否両論の議論を巻き起こした。

 その映画化を企画したのが、昭和29(1954)年に製作再開を果たしたばかりの日活。石原慎太郎との映画化交渉には、弟・裕次郎も立ち会ったという。昭和31(1956)年2月には、「太陽の季節」の芥川賞受賞パーティが神田・如水会館で行われ、この席上で日活の水の江滝子プロデューサーは、石原裕次郎に紹介されている。この出会いが映画俳優・石原裕次郎誕生へと発展していくことになる。

 『太陽の季節』は昭和31年4月2日、長門裕之、南田洋子主演でクランクイン。石原裕次郎は、若者言葉のダイアローグ指導として日活撮影所に招かれた。その時、水の江は裕次郎に俳優になることを勧め、長門裕之の仲間の学生・青山という役を急遽作り、裕次郎がスクリーンに登場。この時21歳。『太陽の季節』(5月17日公開)の大ヒットは、映画界に「太陽族ブーム」を巻き起こし、文芸作中心だった日活のドル箱となる。

 さらに日活が石原慎太郎に書き下ろし原作を依頼して企画されたのが、太陽族映画第二弾『狂った果実』(7月12日公開)。主演に裕次郎が抜擢され、共演はかねてから裕次郎がファンだったという北原三枝。湘南で遊ぶ「太陽族」の奔放なセックスをテーマに、美貌の人妻・北原三枝と裕次郎、そして弟・津川雅彦のショッキングな三角関係を描き、大きな話題となった。若き奇才・中平康の先鋭的なショット、リズミカルなカット、大胆な演出。そして、いきなりの主演にも物怖じしない裕次郎の自然な演技。劇中、ウクレレ片手に甘い声で歌う「想い出」は、後の裕次郎映画につきものの歌唱シーンの先駆となった。8月にはテイチクより「想い出/狂った果実」でレコードデビューを果たしている。ともあれ『狂った果実』は傑作として、海外でも高い評価を受けることとなる。

 同時に「太陽族」映画は、その作品内容とは別に良識派からの猛烈なバッシングを受け、社会問題にまで発展。日活は「太陽族映画第三弾」として製作していた北原三枝主演、中平康監督の『夏の嵐』のキャッチコピーから「太陽」という言葉を外し、各社とも自粛を余儀なくされる。

 そうしたなか、巨匠・田坂具隆が裕次郎の新たな魅力を引き出した文芸作『乳母車』(11月14日)を発表。これまでの「反抗する若者」のイメージを百八十度転換させ、現代的な好青年像を打ち出し、裕次郎も伸びやかな演技でその大器を感じさせた。

 そして昭和32(1957)年。映画俳優に専念するために慶應大学を中退した裕次郎は、この年9本の映画に出演することとなる。なかでも井上梅次監督による『勝利者』(5月1日)で演じた若きボクサー役は、強烈な印象を残した。北原三枝のバレリーナと、チャンピオンを目指す裕次郎の若い恋人たちに、挫折した元ボクサーでプロモーターの三橋達也、そしてその婚約者の南田洋子を巧みに絡ませ、メロドラマとアクション、娯楽映画の要素を盛り込んで、堂々たる大作となった。

 海洋活劇『鷲と鷹』(9月29日)、慎太郎原作によるミステリアスな『俺は待ってるぜ』(10月20日)では、裕次郎は長身痩躯を生かしたアクション、甘い歌声をスクリーンで披露。その人気が決定的となったのが、年末に封切られた昭和33(1958)年の正月映画『嵐を呼ぶ男』(井上梅次)だった。ドラムスティックを片手に「♪おいらはドラマー〜」と歌うカッコ良さ! たちまち裕次郎を日本映画のトップスターに伸し上げた。

 反抗する新世代の若者としてセンセーショナルなデビューを果たした裕次郎だったが、地を生かしたのびのびとした演技、屈託のない表情。それまでの日本映画のスターにはない、自由な雰囲気によって、文字通り時代の寵児となっていく。

 製作再開以来、「信用ある日活映画」のキャッチコピーで、良質な文芸作を製作していたものの、興行的な決め手を探しあぐねていた日活にとって、石原裕次郎の登場は会社のカラーを一変させ、日活アクション黄金時代の幕が開くこととなる。

 『嵐を呼ぶ男』の大ヒットにより、空前の裕次郎ブームが到来した昭和33(1958)年には、舛田利雄監督『錆びたナイフ』(3月11日)、田坂具隆監督『陽のあたる坂道』(4月15日)など9本の作品に主演。なかでも舛田利雄監督との『赤い波止場』(9月23日)で演じた孤独な殺し屋・レフトの次郎役は、そのフィルモグラフィーの中でも、ひと際光彩を放っている。こうして裕次郎映画は日活のドル箱となり、昭和34(1959)年には11本もの作品に主演するが、一方ではハードスケジュールと、マスコミの猛攻に疲れを見せた裕次郎の失踪事件が、さらにマスコミを賑わした。

 昭和3(1960)年、裕次郎に加えて、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治という若手男優スターによる「日活ダイヤモンドライン」が結成され、それぞれの主演作がローテーション公開されることとなった。この年の4月、裕次郎は北原三枝と婚約を発表、12月にはゴールイン。大きな話題となった。しかし1961年始め、スキー場で骨折、5ヶ月の入院を余儀なくされる。その間、赤木圭一郎の事故死もあり、ダイヤモンドラインのローテーションに大きな変化が訪れる。そうしたなか、裕次郎は中平康の『あいつと私』(9月1日)で復帰。『街から街へつむじ風』(1月14日)の挿入歌「銀座の恋の物語」が270万枚のヒットを記録。歌に映画に、裕次郎は黄金時代のキャリアを着実に重ねて行くこととなる。

 昭和37(1962)年には、蔵原惟繕監督の『銀座の恋の物語』(3月4日)や『憎いあンちくしょう』(7月8日)で浅丘ルリ子と共演。アクション映画や完全無欠のヒーローばかりでなく、大人の男性の魅力を引き出した作品にも出演。こうした作品で提示された「男と女の過去」をめぐる「アイデンティティの回復」という作劇はやがて、60年代後半のムードアクションという形で昇華。一方、名コンビだった舛田利雄監督との『零戦黒雲一家』(8月12日)での軍人役や、『花と竜』(12月26日)での明治の侠客を演じるなど、現代青年ばかりだった裕次郎に、俳優としても大きな転機が訪れていた。

 “反逆児”イメージの強かった裕次郎の成熟は、ニッポンの高度成長の象徴ともとれる。反撥する若者から、期待されるべき青年像へ、それがやがてリーダー的な存在となっていく。裕次郎のフィルモグラフィーには、その変節が見てとれる。

 昭和38(1963)年。気の置けない仲だった舛田利雄監督に、裕次郎が意外な提案をする。「一度、映画で壮絶な死を遂げてみたい」。裕次郎映画には禁じ手だったヒーローの死。舛田と裕次郎は、究極の反逆児として『太陽への脱出』(63年)の主人公・速水志郎を創造。ベトナム戦争のさなか、「死の商人」の主人公が、会社と祖国に裏切られ、その復讐の為に立ち上がる。その壮絶なラスト、主人公のかけていたサングラスに映える、昇る太陽は強烈な印象を残す。

 そしてこの年、29歳になった裕次郎は、かねてからの夢だった映画製作に乗り出すため、自らのプロダクション、石原プロモーションを設立。第一回作品として市川崑監督の『太平洋ひとりぼっち』(10月27日)を発表。ヨットによる太平洋単独横断を果たした堀江謙一青年を自ら演じ、演技的にも新境地を拓いた。石原プロでは、コメディ・アクション『殺人者を消せ』(64年9月19日)の企画、時代劇スペクタクル『城取り』(65年3月6日)の製作、『栄光への挑戦』(66年10月8日/いずれも舛田利雄監督)の企画など、精力的に映画製作。1965(昭和40)年には、ハリウッドの招聘を受け、ケン・アナキン監督『素晴しきヒコーキ野郎』(10月公開)に、日本人パイロット役で出演している。

 この年、三十代を迎えた裕次郎は、日活の若手スター渡哲也と連続共演。かつての反逆児が頼もしい成熟したヒーローとして後輩に胸を貸したかたちになった。松尾昭典監督の海洋活劇『泣かせるぜ』(10月1日)や、舛田利雄監督の男性活劇『赤い谷間の決闘』(12月28日)で、渡と見事なコンビネーションを発揮。

 一方、浅丘ルリ子との『赤いハンカチ』(64年1月3日)、『夕陽の丘』(同4月29日)で本格的に始まるムードアクション路線は、成熟した男女の過去と現在をめぐる物語に、ムーディな裕次郎の歌声を盛り込んで、60年代後半の裕次郎映画のメインとなる。江崎実生監督による『夜霧よ今夜も有難う』(67年3月11日)は、このジャンルの代表作となっている。

 任侠ブームが映画界に吹き荒れた60年代後半。日活では高橋英樹、小林旭を中心とした任侠映画が連作されていたが、裕次郎もアキラ、ヒデキと豪華共演を果たした松尾昭典監督『遊侠三国志 鉄火の花道』(68年1月13日)などで貫禄のあるところを見せた。

 映画が斜陽となった60年代後半、『黒部の太陽』(68年2 月17日)などの大作を製作、映画への夢を次々と果たしていった裕次郎。毎年、正月映画の顔として日活のスクリーンで新作に主演を続けていったが、1971(昭和46)年1月13日公開の長谷部安春監督の『男の世界』が最後となった。

 裕次郎が日活で出演した映画は、およそ89本(『心と肉体の旅』58年はノンクレジット出演)。そこには戦後ニッポン映画黄金時代の夢とロマンが凝縮されている。

2009年 日活「石原裕次郎ゴールデントレジャー」パンフレットより



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