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鴨下信一さん インタビュー・第2回「植木等ショーの時代 その1」

鴨下信一さん インタビュー 第2回「植木等ショーの時代 その1」

2010年8月10日 TBSにて  聞き手・構成:佐藤利明(娯楽映画研究家)

このインタビューは2010年秋に上梓した「植木等ショー!クレージーTV大全」(洋泉社)のためにまとめたものです。同書はすでに絶版になっており、版元もなくなってしまったので、読んで頂く機会がなくなってしまいました。今回、追悼の意味もこめて、ここにアップさせて頂きます。鴨下信一さん、本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

—鴨下さんは、バラエティ志向はあったんですか?

鴨下 バラエティ・ショーは好きでした。もともと見世物が好きで、僕らの子供の頃は、見世物全盛期ですから。(江戸時代の)歌舞伎だって、見世物だった。だから、バラエティのなんたるかを、よく知りもしないのに、最初に「植木等ショー」をやっちゃった(笑)。

—植木さんとは、これが初めてですか?

鴨下 面識はあったけど、仕事はこれが最初です。この年、『黄金作戦』(67年)でラスベガスへ行ったでしょう。それでグループとしては、一つの頂点を極めて、渡辺晋さんが、植木さんのワンマンショーを、ということで始まったんでしょうね。

—なぜ鴨下さんに?

鴨下 僕は、実はワンマンショーをたくさんやってました。「チエミ大いに歌う」(65年5月〜11月・金曜21:00〜21:30)という、チエミちゃんの26本の歌番組とか、比較的慣れてましたから。それで、植木さんを手伝わないかって話が来たと思います。スタートして、ディレクターの人数が足りなくなって、森伊千雄(プロデューサー)さんが来て「鴨ちゃん手伝ってよ」って。森さんは、東宝の森岩雄さんの息子だった人。簡単に「いいよ」って引き受けちゃう。ホントいい加減(笑)。最初にやったのは、よく覚えている。Gスタ(ジオ)で、植木さんが歌を唄いながら手品をやるんだ。確か、中原弓彦さんにホンを手伝ってもらったんだ。

—中原さんには、鴨下さんから?

鴨下 そう。「植木等ショー」の座組みのなかに、中原さんの名前がありましたから。砂田実さんと藤田敏雄さんがいたから、中原さんはメインじゃなかった。山川方夫さんの家で、「違います」って言ったのをよく覚えていたから、「じゃぁ、俺は中原さんと組むわ」って声をかけたんです。

—それで自ずと“藤田敏雄・砂田実チーム”という、わりとオーソドックスなほうと、“中原弓彦・鴨下信一チーム”という・・・

鴨下 いい加減なほう(笑)。中原さんも、日本橋区米沢町(現・中央区東日本橋)生まれの下町っ子で、僕は下谷の竹町(現・台東区台東三丁目)で、伊東四朗の先輩(笑)。二人とも下町っ子だから、話が合ったことは確かです。

—東京喜劇の根っ子は下町にあり、ですね。

鴨下 浅草のすぐ隣だからね。僕にとっては「植木等ショー」ってのは、懐かしい。あの時代までは、日本でバラエティ・ショーが育つかもしれない、と思ってましたから。というより、僕は、ボードビル・ショーなんです。後から考えると、向こうのキャバレーのようなショーがやりたかった。

—「植木等ショー」は初のワンマンショーです。それまでのクレイジーの番組とは違います。

鴨下 植木さんっていうのは、クレイジーのなかでも不思議な立場だったからね。リーダーはハナちゃんでしょう。でも「スーダラ節」や映画ではメイン。ドリフの加藤(茶)もそういうことなんだけどね。クレイジーは仲が良かったし、大人でインテリだったよね。

—植木さんも相当意気込みがあったと思いますが

鴨下 でも、植木さんはいい加減だからね(笑)。“ワンマンショーに挑戦する”という感じはほとんどなくて。そう見えただけかもしれないけれど。最初に渡辺晋さんに言われたのが「植木はああいう奴だけど、稽古場で笑ってやってね」。やっぱり晋さん、大プロデューサーですよ。なるほど、それは正しい。「あいつは恥ずかしがり屋で、もともとはこういう事やりたくないんだから。無理矢理やらせて面白くするんだから。その代り、稽古場でスタッフが笑ってやらないと、あいつショゲるから。ショゲたら植木は何もしなくなっちゃうから」。「だから鴨ちゃん、笑ってやって」と。これはスタッフみんなに言いましたし、やっぱり晋さん、偉いなと思いました。

—日生劇場で中継という、破格の企画でスタートした「植木等ショー」ですが、鴨下さんは初のスタジオ収録です。4回目にして仕切り直し、という感じだったんでしょうか?

鴨下 実は、それまでの「植木等ショー」を全部観ていない。それがかえって良かったんです。番組に参加していないから、勝手なことをやろう、って。日生(劇場)で、馬鹿みたいに金がかかったので「安くやってくれ」っていうのを言われたのが、一番大きいです。

#4「梓みちよ・落語家と共に」(1967/07/27)

—鴨下さんが初めて参加した#4「梓みちよ・落語家と共に」は、初のスタジオ録り、オープニングがスゴいです。

鴨下 植木さんが風呂の中に裸で入っていて、フタが開いて、テーマソングを唄う。お湯の中に入ってるようにみせてね。バックのダンサーが、ちゃんと衣裳を着て踊るのも、またよく判らない(笑)。なんで、そんなことしたのか、今となっては検討もつかない。本当はバックダンサーは、ちゃんと浴衣着てやらないといけない。でもそうしないところが、いいんです。

—構成は中原弓彦さんです。

鴨下 弓彦さんとじゃなきゃ、こんなのは考えません(笑)。この手が好きなの。昔から趣味なんですよ。チータの番組(「みんなでヨイショ」69年)でも、豚を100匹出すとか、よくやりました。トップタイトルに、なぜか豚が乱入してくる。意表をつきたいというより、笑わせたい衝動です(笑)今村昌平さんの『豚と軍艦』(61年・日活)を、バラエティ・ショーに取り入れちゃおうと。あれは横須賀のドブ板通りだけど、こっちはバラエティだからギンギラギンのセットに豚が出て来ちゃう。結局、ネタはあったんです。

—お風呂も、それまでの日生劇場での上下を脱いで

鴨下 『東京五人男』(45年・東宝・斎藤寅次郎)の(古川)ロッパが、風呂に入って唄うじゃない(笑)歌って、風呂で歌ったりするでしょう。中原さんのアイデアかな、これは。結構ネタはあったんだよ。それが、どういうわけか、#4「梓みちよ・落語家と共に」のオープニング。大企画だよなぁ。これは、残っているの?

—はい。植木さんが保存されていた17本のキネコに入ってます。

鴨下 TBSにはなくて、植木さんが持ってたの? 素晴らしいことだなぁ。懐かしいなぁ。植木さんが歌(「花は花でも何の花」)を唄いながら、手をこうやって、花を咲かせるんだよ。唄いながらマジックをやるのは、当時のテレビでは非常に斬新だったんだ。歌に手品を絡ませるなんてことは、誰も考えなかった。外国ではあったんだけどね。僕、マジックショーが大好きで、いろんなマジシャンを知っていたんです。松旭斎広子さんをよく知っていて、その妹分の松旭斎すみえさんを紹介してもらった。たしか、今、ウッチャンナンチャンがいるマセキ芸能社の所属でね。マセキのオヤジのところへ行ったのを覚えてます。

—余談ですが、マジックと歌、というと、マキノ正博監督の『世紀は笑ふ』(41年・日活)で、松旭斎天勝さんが奇術をしているところで、杉狂児さんが同じことをやってます。

鴨下 へえ〜? 早いねえ。マキノさんと同じ発想なんてね。でも、歌の中に手品を入れるのは、僕はしょっちゅうやってました。この後の「みんなでヨイショ」の時に、水前寺清子が小さいからドラムに入れたんで、それで、引田天功のマジックをやったこともあります。

—「花は花でも何の花」の次のコーナーは大喜利です。

鴨下 (月の家)円鏡は出ていたのを覚えてます。僕が贔屓だったんです。あとは誰でしたか?

—金馬亭馬の助、三笑亭夢楽、春風亭柳好、春風亭柳昇、錚々たる顔ぶれです。

鴨下 TBSは落語会が充実していたから、TBSが落語界に顔が利いたんです。それに、僕は落語番組を担当していたこともありまして、なんでもやらされていたんです(笑)TBSには演芸番組にその人あり、といわれた*出口(一雄)プロデューサーがいて、その人が可愛がってくれました。出口さんのところに、しょっちゅう出入りしていたので、そこに円鏡や馬の助とか、後の大看板がみんな二つ目でいた。だから、急遽でもすぐ集まってくれたんでしょうね。あの頃の円鏡って、ものすごく人気があったんだよね。今の昇太どころじゃない。(林家)三平の跡を継ぐのは、あいつじゃないかって言われてたくら。何をやっても、ドッと受けて、円鏡さんとはよく話をしたな。懐かしいね。

*出口一雄:ラジオ東京の演芸プロデューサー。文楽、志ん生、小さん、円生といった名人が専属となったのも、出口氏の功績。

—大喜利が終って、植木さんが客前にやってきて、電話をかける。相手は青島幸男さんで、出演交渉をするわけです。

鴨下 電話ゲストのコーナーは、弓彦さん。アメリカのショーか何かで、電話をかけてメチャクチャになっちゃうっていうのがあって、それを観ていたんです。

—電話をかけると「なんだ植木屋かよ」「植木屋なんて言うなよ」という会話で会場を笑わせて、今度はゲスト交渉に入るんです。

鴨下 「笑っていいとも」のパターンだね。すごいなぁ(笑)。

—その後に、ようやく歌のゲストで梓みちよさんが登場。

鴨下 植木さんと掛け合いになるんだよね。あの時、掛け合いで歌うのが流行っていてね。二人の記憶がどんどんズレてきちゃう。これは多分、お宮(宮川泰)に任せてたんだ。たぶん丸投げだと思います。詞は弓彦さんでなく、藤田(敏雄)さんに頼んだかもしれません。あんまりこういうの好きじゃないから、多分、僕は無関係だったと思う(笑)。大して気が乗らない、そんな時は「お宮が曲を作ればいいじゃん」って丸投げ。だから、ほとんど僕は手をかけてない。もっぱら、僕は松旭斎のところへ言って、手品のネタを取ってくるとか、大喜利をどうしようか、ってことに専念していたんでしょうね(笑)。

—この回、植木さんのMCがほとんどありません。歌と大喜利、電話コーナー、歌、エンディングという構成です。

鴨下 向こう(アメリカ)のバラエティだね。だらだらしない(笑)。それに掛け合いの歌のところを、僕がやらなかったのは「向こうの人はみんな、分業だから」って、言った覚えがあります(笑)。

—合作システムですね。

鴨下 そう、パートワークです。「全体の統括は(プロデューサーの)森さんがやればいい」って。でも番組から良い歌が生まれれば良いという、渡辺晋さんの思惑もあったんでしょうね。

—#4の最後、エンディング・ゲストに八代目桂文樂師匠が出てます。

鴨下 ホント!? 全然覚えがない。黒門町は、僕が落語(番組)をやっていた縁で、お話したり、飲んだりしたこともあるんです。それが僕の自慢でね(笑)。

—番組のネタは、どういう風に?

鴨下 「植木等ショー」のネタ捜しで、オフ・ブロードウェイの(芝居の)台本をずいぶん読みました。実はそういう努力もしました。ずいぶん面白いのを見つけて、後で使いましたけどね。例えば、洋服を着替える毎に、凶暴になったり、優しくなったり、というネタ(笑)。アロハを着ると軟弱なったり。オフ・ブロードウェイってヒドいのある。後々だったら、コントにしか使えないようなネタ、堂々とやってる。コントでなく演劇なのに(笑)そういうネタを欽ちゃんにすると、すごく喜んでくれてね。欽ちゃんのギャグって、僕らの感覚とは違うから。よくギャグの話はしていたんです。

#10「谷啓と共に」(1967/09/07)

—#10「谷啓と共に」は、小林信彦さんの「テレビの黄金時代」によると、中原=鴨下コンビ作です。TBSの資料では砂田実さんとありますが。

鴨下 薗田恵一とディキシー・キングスが出てる? それは僕です。谷啓も薗田恵一もトロンボーン奏者で面白いしね。谷啓が好きなもんだから、オバケの話だったんじゃないのかな? オバケ大会をやったんです。棺桶から出て来て、演奏したり、植木さんと掛合いで漫才もしてもらいました。この時、視聴率が26%近く行って、どんどん上がっていくんです。クダらなくしたら、視聴率がどんどん上がっていった(笑)。日生劇場で金かけるより、風呂に入っていた方が良かった(笑)。

—この「谷啓と共に」の写真を見ると、バッド・アボット&ルウ・コステロとか、ボブ・ホープ&ビング・クロスビーみたいですね。

鴨下 それは、やっぱり中原さんのアイデアです。絵柄としてイイでしょう。アメリカ喜劇のコンビみたいにすると、植木さんと谷啓、イイんだ。谷啓は逗子開成でしょ、僕も開成なんです。そんなところで意気投合して、お仲間になるんですよ。楽しかったなぁ、面白い時代でしたね。

—植木さんのワンマンショーに、谷啓さんは作家として、番組に貢献されるわけですね。

鴨下 ええ、そうなんです。谷さんのある種のクリエイティビティが非常に生きてくるし、なるほど谷さんっていうのは、こういうアイデアがある人だって思いました。独特の間(ま)があって、すごく面白い人だね。

—残念ながら映像が残っていません。スチルから想像するしかありません。

鴨下 想像通りのものが出来ていると思いますよ(笑)

—明らかに「珍道中」シリーズのボブ・ホープとビング・クロスビーですね。

鴨下 そうそう、僕も中原さんもそういう事になると知識があるんです。映画を観てるから、阿吽の呼吸で出来ちゃう。

—作家と演出家の関係としては、理想的です。

鴨下 そうですね。それでも、中原さんの書いたように全部やっているわけではないんだけど、やっぱり中原さんのテイストになっていることは間違いない。

—お二人の、これまでの記憶とか知識、面白かったものを、再構築していくことで作品となっていく。記憶を再現し、再構築していくわけですよね。

鴨下 バラエティ・ショーって、何が作家の命で、何を最大に要求されるのか? それは批評眼ですね。構成があったとして、そのネタでこのシーンは2分、このシーンは3分、このシーンはそれだけじゃ持たないという、一種の批評眼です。それさえあれば、演出家は務まります。

—自分のことで恐縮ですが、突き詰めると実は作家はそこまで考えていない。とりあえず、このネタを入れて、次はこれ、全体のメリハリは考えますけど、ホンを上げたら、あとは演出さんにお任せということで頼ってるのかも。

鴨下  尺が判るか、判らないかというのが、作家の一番難しいところです。僕らは尺がわかるから、植木さんに「ここまで」って指示が出来るんです。でもギャグそのものは、当人達がやるので、そこは僕らも手は出せません。いじらない方が良いんです。僕は、よく(いかりや)長さんに「大変なんだよ」って、台本を戻されました。「全部考えなくちゃいけないのはしんどい」って。「でもそれは長さん、間違いだよ。グルーチョ・マルクスが書いた本を貸すから」って。グルーチョが、どんなに文句を言ってるか。「“監督もシナリオ作家も、全部俺がやるんじゃ堪らない“って書いてあるから、読んでみて」と云ったら長さん、読まないで「判ったよ」って(笑)。長さんは、ギャラで仕事していた人だから文句も出るわけです。植木さんは、考えるのはあまり好きじゃないから、「パーッといこうぜ!」で全部が解決しちゃう。谷啓は、ちゃんとクリエイティブに考えてやる。三者三様だけど、それも面白いよね。

—それはミュージシャンとしての植木さんの在り方なんでしょうね。譜面を渡されて演奏するのと同じ様に、台本を渡されてちゃんと演じる。“やらねばならないこと”と“やりたいこと”は別なんだと、仰ってました。

鴨下 そうだと思います。あれだけ良い声をしていて、クレイジーの歌ばかり唄ってたら、お客さんは満足だろうけど、本人にはやっぱり不満はあったでしょう。

#12「当世三奇人と共に」(1967/09/21)

—「ゲバゲバ90分」前夜に、大橋巨泉さんと前田武彦さんを絡ませたというのは、早いですね。
鴨下 単にトークだけで持つという意味でも、この人たちは早かった。つまりギャグをやらなくて、トークショーで持つということを、発見されたんじゃないですかね。それが一番大きな発見だった。それに青島幸男を加えて「当世三奇人と共に」。これがけっこう出来が良くて、好きなんです。残ってないの? 残念だなぁ。

—ぜひ見たいですね。

鴨下 これも中原さんに頼んだんだ。フォーマットなんかおかまいなしに、勝手に作っちゃった。植木さんが(ホストなのに)歌いながら、スタジオを飛び出して行っちゃう。どこへ行ったかわからない。TBSの中なんだけど、あらゆるところに行っちゃって。ホスト不在(笑)。でも、一回だけ歌うんだ。走りながら歌ったのかな? で、最後はまたGスタに戻ってくるんだけど(笑)

—それをカメラで追うんですか?

鴨下 そんな面倒くさいことはしなかった(笑)。第一その頃は、ハンディカムなんてないし、一カ所だけケーブルを伸ばして、Gスタから出たところで撮ったな。あとは知らん顔して、歌声は聞こえども、植木さんの姿は見えない。それで、巨泉、前武、青島の三奇人が「どこへ行ったんだ、植木は?」って言ってるのが面白かった。

—植木さん不在で「植木等ショー」が展開される・・・

鴨下 いないほうが良いんだもん(笑)。欠席裁判みたいなトークになる。それは意図的です。スタジオを出てというのは僕のアイデアで、廊下の向こうに行くまでカメラでフォローして、それから知らん顔。巨泉たちが「植木のバカ」とか言ってるときに、植木さんが忽然と戻ってくると、みんながひっくり返る、っていうオチにした筈です。

—植木さんは不在だけど、存在感がある。存在感が番組を支配しているってことで、ワンマンショーが成立しちゃう。ハイブローですね。

鴨下 この三人を出すとなると、そりゃぁ捻らないと。

ーこれだけ捻ったワンマンショーは、渡辺晋さんの最初の想いとは全く逆だったんじゃないでしょうか? 結果は理解されたと思いますが。

鴨下 結果はよく理解してくれたと思うけど、企画書出したときには「鴨ちゃん、難しいだろう。こういうことやるのは」って言われたと思いますね。でも、僕が有利だったのは、なんてったってドラマの人だから、治外法権的にやることができたこと。だから何でも“高級”にやってる。“アチャラカ”ではないと見てもらえてた。それをずいぶん利用させてもらいました(笑)。

—意表をつかれても、“実験的”“野心的”という良い言葉で評される。“くだらないこと”をやってるとは、誰も思わない。

鴨下 本当は“アチャラカ”なんだけど(笑)。大スターで“アチャラカ”をやるっていうのが一番良い。武智鉄二さんが「山本富士子でポルノを撮りたい」って言ったのと同じです。大スターがやらないと、“ポルノ”とか“アチャラカ”って、正しい形にならないんです。

—植木さんは懸命に走っているけど、テレビにはちゃんと写らない。植木さんの部分は、巨泉さんの論評と、視聴者のイマジネーションに委ねちゃう。

鴨下 そうそう(笑)。巨泉が「あいつ(植木)は本当に、ああいう奴だからね」って言ってるのが面白かった。植木さん不在の「植木等ショー」で、実際に本人が映ったら、面白くもなんともない。

—逆転の発想ですね。

鴨下 ホスト不在で番組がどんどん進行しちゃう。「いいよ、もうオレたちでやろうよ」って事になる。で、三人でパイ投げをするんだけど、パイのかわりに化粧道具をぶつけ合う。「やる?」って聞いたら、三人とも面白がっちゃって。僕はあの三人とも、それぞれ構成の先生として、お付き合いがあったんです。でも、最初は何で知り合ったのか、例によって定かではない(笑)。いつの間にか知ってるんです。番組作るときは、知ってる人に電話をかけて「今度、お願い」って頼んじゃうしね。中原さんだって、山川方夫さんの家で会った縁ですからね。

—その頃、鴨下さんは東芝日曜劇場が多いですが、ドラマ班だったのですか?

鴨下 でもない。なんでも屋でした。員数が足りなくなると、呼ばれるがまま。「植木等ショー」がそうだったしね。そうか「天国の父ちゃんこんにちは」(森光子、二木てるみ)シリーズはやってたんだ。「植木等ショー」の時も、日曜劇場の「秋津温泉」(67年7月2日)なんて真面目なものも。日曜劇場の「おたふく物語」(67年9月24日)は、確かカラーの一発目です。原作は山本周五郎、時代劇だけど、色が出なくて苦労して。障子が一面、グリーンに映っちゃったりして困って。そしたら障子の後ろに松がある。そのグリーンだったんです。三日位寝なかったこと覚えてます。この間亡くなった、長谷川裕見子さんが出てました。東芝(日曜劇場)と「植木ショー」と掛け持ちだったんだね。

—日曜劇場にエノケンさんが出たのは、この頃ですか?

鴨下 「植木等ショー」で森さんが演出したときに、エノケンさんが出てるでしょう(#8「榎本健一と共に」67年8月24日)。僕の「正子絶唱」(68年2月18・25日)は、真面目なドラマで、和泉雅子が片足を切断して、それを「がんばるんだよ」って励ますおじさんの役を、エノケンさんに演じてもらったんです。で、エノケンさんのお宅に(交渉に)行ったんだけど、そのときに二人でギャグの話ばかりしました(笑)。エノケンさんは、その時、堺正章がご贔屓でね。堺に全部、自分の芸を伝承させたいって、仰ってました。


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