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『嵐を呼ぶ男』(1957年・日活・井上梅次)

栄光は俺のものだ!乱れ飛ぶ鉄拳!狂燥のリズム!!恋を捨て、ドラムと野望に斗魂たぎる熱血の男!!

製作=日活/1957.12.29/12巻 2,742m 100分/カラー/日活スコープ/併映:燃える肉体・禁じられた唇/再映 1958.02. 5~ 併映:佳人・昭和33年初場所大相撲

 昭和33(1958)年始め、日活は石原裕次郎に“タフガイ“というニックネームを命名した。後の小林旭の”マイトガイ”、二谷英明の”ダンプガイ”に先駆けるキャッチコピーとなった。昭和31(1956)年の衝撃的なデビューから一年半、着実に上昇してきた裕次郎人気に一挙に火がついたのが、この『嵐を呼ぶ男』だった。原作・監督は『勝利者』『鷲と鷹』(いずれも1957年)と裕次郎映画を手がけてきた井上梅次。原作としてクレジットされているのは、井上自らシナリオをノベライズして「小説サロン」に掲載したもの。

『太陽の季節』(1956年)で裕次郎を見い出し、『狂った果実』(1956年)で主役に抜擢したプロデューサーの水の江滝子を映画スター裕次郎の生みの親とすれば、『勝利者』や『鷲と鷹』で裕次郎のヒーローとしての方向性を決定づけた井上監督は育ての親。  

 さて『嵐を呼ぶ男』だが、プロデューサーはベテランにしてアイデア溢れる児井英生。自らの児井プロで、溝口健二の『西鶴一代女』(1952年・新東宝)、小津安二郎の『宗方姉妹』(1950年・同)などを製作してきたパワフルな企画力と実現力を持っていた人 この作品は、井上と児井が箱根の旅館に籠って、1958年の年頭を飾る裕次郎の正月映画企画を検討するところから始まった。そこで井上は大胆にも「裕次郎でジャズ映画を作る」と提案したという。

 井上はそれまでも新東宝で、雪村いづみの『娘十六ジャズ祭』(1954年)や『東京シンデレラ娘』(1954年)などのハリウッド・ミュージカル風のバラエティ映画を演出しており、日活でも裕次郎が出演した『お転婆三人姉妹・踊る太陽』(1957年)といった音楽バラエティを作っていた。そうした経験をふまえての「ジャズ映画」だった。ジャズといっても、戦後しばらくはポピュラー音楽のことをすべて“ジャズ”と言っていた時代である。いわゆる“JAZZ”のメイン・ストリームとは明らかに違う。だからこそ、ドラマーの裕次郎が「おいらはドラマー〜」と唄い出すという発想も湧いてくるのだろう。“唄うドラマー”というアイデアは井上の勝利である。

 ジャズバンド“シックス・ジョーカーズ”のマネージャー、福島美弥子(北原三枝)が、ドラマー志望の流しの青年・国分正一(石原裕次郎)を抜擢、スターに育て上げるという物語は、アメリカ映画指向の強い井上監督らしい展開。ハリウッドの音楽映画ではおなじみの楽屋裏を舞台にした、華やかなバックステージものを裕次郎映画に取り入れたことが、何より斬新だった。

 井上監督によると、北原三枝のマネージャーと裕次郎のドラマーの関係は、 昭和30(1956)年に渡辺プロダクションを興したばかりの渡辺美佐(当時は曲直瀬)とベーシストの渡辺晋の関係をモデルにしたという。冒頭で、北原三枝・母娘が業界用語を交わしながらタレントの貸し借りとギャラについて会話するシーンが印象的だが、この映画はある意味、昭和32(1957)年の音楽業界を舞台にしたトレンディ・ドラマでもあるのだ。

 冒頭、ロカビリー歌手・平尾昌晃が「♪銀座の夜は生きている」を唄う場面があるが、その曲を作詞したのが気鋭の若手ジャズ評論家だった大橋巨泉。それまでの日本映画では取り上げられる機会の少なかった芸能プロの裏話を巧みに取り込んだストーリー。そして金子信雄扮するジャズ評論家の左京のキャラクター造型も興味深い。 

 宿敵、チャーリー・桜田に扮しているのはジャズ・シンガーの笈田敏夫。裕次郎のドラムの吹き替えは、今なお現役で活躍中の大ベテラン猪俣猛、笈田の吹き替えは白木秀雄が担当。さらに裕次郎のドラム指導は、ジョージ川口が裕次郎宅で行ったという。また、留置場でワンシーン出演するフランキー堺も、戦後大人気だったドラマー。この映画には当時のニッポンを代表する四大ジャズドラマーが関わっていることになる。

 出演ジャズバンドとして、渡辺晋とシックス・ジョーズ、白木秀雄とクインテットがクレジットされているが、猪俣猛、ジョージ川口の各氏は、井上監督に確認した。さらに、サックス・プレイヤーとして、このすぐ後にハナ肇とクレイジーキャッツに加入する、安田伸が出演。最後の国分英次(青山恭二)のシンフォニック・ジャズの演奏会でも、サックスを担当している。

 敵対する芸能プロの放った持永の乾分・健(高品格)に左手を潰された裕次郎がドラム合戦に出場。傷の痛みでスティックを持てなくなり、突然「おいらはドラマー〜」と唄い出す。それまで挿入歌的扱いの多かった裕次郎の歌が、ドラマティックに唄われ、観客に強い印象を与えた。

 児井プロデューサーは、裕次郎専属のテイチクにレコード化を持ちかけたが「こんな歌とてもダメ」と断られた。「俺は待ってるぜ」はじめ裕次郎のレコードがヒットしていたにも関わらずである。そこで日活宣伝部がフォノシートを製作し宣伝用に配付、公開後の映画館で販売したところたちまち完売。シートでの記載は、劇中のレコード同様「唄うドラマー」というタイトルだった。テイチクは急遽レコード化、そこで曲名が「嵐を呼ぶ男」となった。ちなみにB面はやはり映画公開時にシングル化が見送られた「鷲と鷹」。このシングル5日間で8万5千枚が売れたという。

 こうしてタフガイ裕次郎の黄金時代の幕が開き、『嵐を呼ぶ男』は伝説の映画となり、昭和41(1966)年渡哲也主演、舛田利雄監督でリメイクされている。井上監督も香港映画『青春鼓王/King Drummer』(1967年・ショウブラザース)としてリメイク、昭和58(1983)年には近藤真彦主演で四度目の映画化がなされている。

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