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ゼロファイター世界を翔ける男 第8章 いぶし銀パワー アフリカ機長生活



第8章 いぶし銀パワー アフリカ機長生活


1・たった一機の航空会社

ロンドンで乗り継ぎ、英国航空でガンビアのユンダム空港に入った。ガンビアに着いたことは着いたが、肝心のYS11がまだカリブから届いていない。
空港に迎えに来てくれたガンビア航空スタッフが、市内のホテルと海岸線にあるリゾートホテルのどちらが良いかと訊くので、ためらわずにリゾートホテルに決めた。飛行機がくるまで何もすることがないから、プールで泳いだり、海岸線の散歩しようと思ったからである。

現地の9月は、3ヶ月に渡る雨季が終わり、これから9ヶ月に渡る乾季が始まったときだった。毎日のようにサハラ砂漠から吹く黄砂のために、太陽さえもよく見えない。が、それゆえ太陽の熱を遮断し、熱帯にもかかわらず暑さが緩和されている。砂はいただけないが、暑さの緩和には役立つ。
 
このガンビアという国は、周り三方をセネガル国に囲まれ、真中にガンビア川が流れ、大西洋に注ぐアフリカ西海岸の小国である。山というものがなく、ブッシュに覆われた平坦な地形で、岩もなければ石もない。行けども行けども砂ばかりの国である。


アフリカ大陸西海岸


ガンビア川



もっともこれはガンビアだけでなく、セネガル国も、ギニアビサウも、さらに南のギニアコナクリもそうである。西アフリカの大西洋に面した国々は押しなべて、サハラ砂漠から運ばれた砂によって、遠浅の海が埋め立てられて生成されたものであることが、素人の菅原にもわかった。

ガンビアは1965年にイギリスから独立した国だ。独立してまだ25年の新しい国だ。この国の公用語は英語だ。それは彼らにとって幸いした。近隣の他国はほどんとがフランスの植民地だったから、公用語はフランス語だ。フランス語は、数字以外は分からない菅原にとって、英語がガンビアの公用語というのはありがたい。
ガンビアでは、最近奥地から出てきた者を除いて、皆英語を使っていた。この地域の国々はフランス語こそ公用語であり、かつ国際語で、英語が国際語という感覚はない。
 
時差ボケもとれ、プールでご機嫌よく泳いでいたら、会社から連絡が入った。今日10月7日の夕刻にYS11が到着するという。ようやく来たかと、見にいった。
 
アメリカ人親子のパイロットが、カリブ海のオランダ領アルーバ、そしてブラジルのレシフェを経て大西洋を横断し、ガンビアに到着したのだ。
機体はそのオランダ領のアルーバで使っていたものだった。パイロットの親の方は元定期便の機長で、この男もたいしたものだった。
ブラジルのレシフェ空港を飛び上がるとき、「直接ガンビアに向けての飛行はならん、アルーバへ戻れ」と無線で管制が指示してきた。「OK、了解」、と返事はいいものの、そんなところへ帰ろうという気は全く無い。そんなことをしていたら、フェリーは務まらない。そのパイロットは、カリブ海のアルーバへ戻るような振りをして大西洋を北上し、ガイアナ国境の近くまで来たら、地上とのコンタクトを絶って、右に転針。一路ガンビアまで、飛んできたのである。

届いた機の機体番号は“P4YSD”。これを、パパ、フォー、ヤンキー、シアラ、デルタ、と呼ぶ。その機の固有識別番号である。このYS機は、どうも少しくたびれた飛行機のように見える。が、それはいまさらいってもしょうがない。

ガンビア航空は、明日すぐにフェリータンクを撤去するという。予定どおり翌日の夕方にフェリー装備の撤去は完了した。飛行準備の整ったYSを見ている菅原のところに、ガンビア航空社長のジャローが近寄ってきた。
「キャプテン、明日から飛んでくれるか?」。
「OK、では明日から飛びましょう」。
 
菅原は明日からの慣熟飛行、そして飛行コースの下見のため、航空地図を広げて下準備を念入りにした。彼のこれまでの累計飛行時間は2万4千時間余、そのうちYS11の飛行時間は1万3千時間強で、ベテラン中のベテランに入るパイロットだ。しかし、ガンビアに来る前の5年くらいは、セスナなどの小型機での飛行が多く、YS11からは離れていた。久しぶりのYS11での飛行だ。菅原は長い付き合いの女性に、久しぶりに会うような気分だった。こうしてたった一機での航空会社がスタートした。

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