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アルペンスキーに人生を懸ける男 斉藤博物語 第1章 遭難


富山県・北アルプス立山。雪山は美しい。
だが・・・

冬の北アルプス 立山


1. 富山県警からの一本の電話


富山県の北アルプス立山は標高3,000mの山岳地帯ゆえ、山小屋は例年11月下旬から翌年3月下旬まで完全閉鎖される。

1970年11月の下旬、山は荒れに荒れ、1週間以上猛吹雪が続いていた。

地獄谷にある山小屋房治荘を閉めて下山しようとしていた小屋のあるじ、佐伯喜代一はじめ、中央大学アルペンスキー部チーフ斉藤博、同スキー部の後輩染谷曻、地元富山のスキーリーダー大屋浩治、スキー仲間の岩城忠雄、田中らを含めた一行19名は、吹雪の止むまで山小屋におよそ1週間も閉じ込められて動けないでいた。 

日めくりカレンダーは既に12月1日になっていた。

山小屋と下界をつなぐのは1本の電話だけだった。その電話が鳴った。
「こちらは富山県警です。明日は天気が回復しそうだから明日下山したらよい。
但しその好天は長続きしないようだ。だから早めに下山した方がよい。そしてもう一つ、同志社大学山岳スキー部14名がテントを張って雷鳥沢にいるらしいが、消息不明ゆえ、出来れば見てきて欲しい。そして可能なら明日一緒に連れて山からおろして欲しい」と言う。

房治荘から雷鳥沢まで、夏なら10分から15分で行けるが、新雪をラッセルしての歩きは大変だ。しかし中大スキー部の斉藤博、染谷曻達は数人で探しに出かけた。

その途中にロッジ立山連峰がある。雪面を見るとわずかに残る足跡がそこへと続いている。どうもその中に逃げ込んでいるようだ。確かに同志社大学の一行14人はそこに逃げ込んでいた。時刻は午後になっていたがまだ陽のある早い時刻だった。

斉藤、染谷達は、「県警から電話があった。君達を探してくれと言われたので探しにきた。明日天気は回復しそうだから、一緒に下山しよう。だから今から房治荘に行こう」と言った。だが同志社の一行は「今この小屋に逃げ込んだばかりで、とても動ける状態ではない。明日の朝行く」という。

「では、明日の朝9時には出発するので、出来るだけ早い時間に房治荘まで来てくれ。そして一緒に下山しよう」ということになった。
同志社一行はひどく体力を消耗していた。


2. 一時いっときの晴れ間


翌朝の12月2日、空は雲ひとつない青空となった。

下山するなら今しかない・・・と思い、中大のスキー部と山小屋の一行合計19名は早朝から出発準備を整え、すぐに小屋を出られるようにしていた。

しかし、来るはずの同志社大学グルーブが来ない。やむをえず房治荘から数人が、同志社のグループが逃げ込んだ山小屋に再び迎えに行った。
彼らは言った「何も食べていない。何か食べさせて欲しい・・・・」

房治荘は来春まで完全に閉鎖するので、すでに全てを片づけてある。しかし連れてきた彼らをこのまま連れて歩きだすと、体力が持たない。そこで再び厨房で鍋釜を出し、ご飯を炊き始め、彼らに食べさせた。

朝9時に出る予定だった。予定通りに出発していれば目的地の弥陀ヶ原には2時間後の11時、多少遅れたとしてもお昼の12時には着くはずだった。
しかし、これで出発が3時間も遅れ、時刻は既に昼になっていた。

山小屋関係者10名、中央大学スキー部9名、同志社大学14名、合計33名一行は、地獄谷から天狗平への水平道を行くことにし、その先にある弥陀ヶ原に向かって房治荘を後にしようとした。弥陀ヶ原まで行けばそこからバスで下山できる。

その弥陀ヶ原まで、途中の大曲までは水平か緩い登り箇所もあるが、大曲から先は下り斜面だ。スキーを履いて行けば約2時間の行程だ。

一行33名は中大スキー部小林平康を先頭にした。先頭は深い雪をラッセル(雪をかき分けて進むこと)して歩くため若手と体力の有る者数人をそれに充てた。そして先頭は歩きだした。殿しんがり(最後尾)は中大アルペンスキー部チーフ斉藤博と、山小屋の親父さんこと佐伯喜代一だった。

斉藤も歩きだそうとしたその時、山小屋の親父さんは空を見上げて言った。「何かおかしい・・・・」。
見上げると青い空にほんの少しの白い雲の筋があった。天気予報はその日一日晴れの予報だった。

青空の中に走るほんのわずかの白い雲の筋。他の人にはわからなかったが、親父さんにはわかったらしい。
「天気が崩れるぞ・・・」

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