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ゼロファイター世界を翔ける男 第3章 ゼロ戦パイロットへの道のり



第3章 ゼロ戦パイロットへの道のり


1・“飛行機・搭乗員募集”ポスターとの出会い

菅原は1924年、大正13年3月に、北海道三笠町で7人兄弟姉妹の次男として生まれた。
三笠町は、札幌と旭川の中間に位置する炭鉱の町だった。
小樽―札幌―を経て、岩見沢から延びてきた鉄道線路は、ここ三笠で幾春別(いくしゅんべつ)と幌内へ分かれる。三笠駅はその分岐点にあった。

父は国鉄職員で、地元の三笠駅に勤務していた。働き者の父は、二町歩、坪で言えば6000坪の畑を持ち、勤務のとき以外は畑仕事に精をだしていた。
土地は畑のほかに、山に五町歩、一万5千坪も持っていた。7つ違いの兄は神童と呼ばれたが、父は、豪放(ごうほう)磊落(らいらく)な性格の弟の靖弘と畑仕事をするのが好きだった。

兄は農業を好まず、高等小学校を出るとすぐに札幌の文房具店に勤めて、札幌で生活をはじめた。靖弘が小学2年の時だった。
父は、靖弘と長兄との間の2人の姉に、家事はさせるものの農作業のことはあまりさせなかった。だから農作業の手伝いは、もっぱら靖弘の担当となった。ジャガイモ、大豆、かぼちゃ、スイカ、メロン、トウモロコシ、イチゴ、トマト、あじうり(まくわ瓜)、それらに加えて、栗の木が200本、さらに梨の木、桜の木も沢山あった。

「オーイ 靖弘、サクランボ取っておいてくれ」。
「うん、わかった」、猿に次いで木登りが上手かった靖弘は、桜の木に登ってサクランボをたくさん取った。
靖弘はサクランボが好きではなかった。だから、取ったものがそのまま籠に入って収穫となるが、弟たちがやると収穫よりそのまま口に入る方が多い。そんな光景を父はときどき笑って見ていた。

とにかく6000坪に、いろいろな野菜、穀物、果実を栽培しているから、農作業は多忙を極めた。
学校に上がる前から手伝っていた靖弘は、別にそれをなんとも思わなかったが、一つだけまいっていたことがあった。

「靖弘、お前また休んでいるのか。」手を休めて一息ついている靖弘にむかって、父は鍬をチャ、チャ、と動かしながら話しかける。
靖弘の腕は長時間の鍬使いで、パンパンにはっている。父には、ほとんど休み無く働きつづけられる特技があった。両腕が利き腕なのである。だから父は疲れたら鍬(くわ)を反対方向に持ち替えて、作業を続ける事が出来るのである。
馬とか牛を飼うのが嫌いだった父だから、必然的に農作業は手でやることになる。農業機械などというものが無い時代だった。この農作業は靖弘の体づくりに、知らず知らずのうちに大きく役立っていた。

春から冬にかけての農作業も、さすがに雪が降るとしなくてもよくなる。靖弘は裏山の斜面で小さいときからジャンプスキーをして遊んでいた。
だれに教わるわけでもなく、我流であった。当時の北海道ではスキーを持たない子がいないくらい、スキーは生活の一部であり、子供達の遊び道具だった。

豪快な感じのするジャンプスキーが性に合い、学校が終わると毎日のようにジャンプスキーをしていた。靖弘はジャンプした時の浮遊感がたまらなく好きだった。
最初は小さな台から飛んで同級生と遊んでいたが、小学生の高学年の頃には10メートルも飛べるようになった。友達が恐がっても、靖弘はビューンと飛べるから、ますます気分を良くし、ジャンプスキーの豪快さに取り付かれた。ジャンプスキー用のスキーは幅が広く、長い。だが、靖弘はそんな板を持っておらず、ノルデック距離用のとても細くて軽いスキー板で飛んでいた。

三笠町には正式なジャンプ台はなかったが、近隣の町では岩見沢にのみあった。菅原は休みの日に汽車に乗ってときどきそこへ出かけた。斜面にやぐらを組み、板を張り付けた少年シャンツェ。それは20数メートルも飛べるものだった。ジャンプ台のスタート位置に立ち、下を見ると足がすくむ。
同級生は恐いと言って、板を担いで横の階段を下りていった者もいたが、菅原は飛んだ。スキーがしなり、風を切り、ビューンと唸る。が、この音は後へいくから本人には聞こえない。最初はちょっと恐かったが、慣れれば平気だった。

スキージャンプから帰ったある日、先生が家に尋ねてきていた。先生は父に向かって言った。
「靖弘君は、勉強もよくできる。お金も掛かるが、中学校へ行かせてやってくれませんか」。
当時、義務教育は尋常小学校の6年間だけだった。その先、進学希望者の多くは2年間の高等小学校へ行った。5年制の中学へ進めるのは、優等生で授業料がまかなえるごく一部の者に限られた。
父は、わりとすんなり承諾してくれた。父は靖弘を自分と同じ国鉄に勤めさせたかった。中学を出たものは、国鉄採用試験のとき有利だったからである。

小学校時代は、特別勉強したわけではなかった。畑仕事が忙しく、とても勉強どころではないのが現状だった。
宿題も一生懸命やったわけでもなかった。畑仕事で疲れて食後すぐ眠ってしまい、翌朝学校へいって、「ありゃ、そんな宿題あったのか?」ということもたびたびだった。
特に勉強が好きだったわけではないが、小学生のとき読んだ“民族日本史”が靖弘を歴史の世界に誘(いざな)った。

尋常小学校を首席で卒業した靖弘は、中学の試験に合格した。この年、中学へ進んだのは靖弘一人だった。彼は汽車で30分の北海道庁立・岩見沢中学、通称“岩中(がんちゅう)”へ進んだ。


旧制の岩見沢中学

中学に入ると英語の授業があった。
「菅原君、この英文の意味を答えてください。」
「菅原君、have to と Mustの違いは何ですか、説明してください。」
「Can I~ は、許可を求める言い回し。ではお願いするときの言い回しは? 誰か分かる人? はい、では菅原君」。
〈何で俺ばかり当たるんだ。この中学の先生は俺に恨みでもあるのか? それとも可愛がってくれているのか?〉 とにかく、この当てられ地獄から逃げるには、少し勉強するのが一番賢明のようだ、と靖弘は思った。

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