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愛しているけれど好きではないか

このひとのことは愛してる、
でも好きではない……

そう感じることに一抹のさびしさと後ろめたさを覚えることはないだろうか。


私の母は94歳で施設に入居している。
あちこち体は弱り切り自力で歩行はできなくなっているが、結構な長生きをしてはいる。

この母は、私がまだ子供の頃、自分は体が弱いから長くは生きられない、と湿っぽく語ることが何度かあった。
そのたび、母に早死にされたらどうしようと、不安と予測できる悲しみに翻弄された。

今思えば、母は意識的なのか無意識なのかわからないが、だから親孝行しなさいと、感情で私をコントロールしていたのかもしれない。

二人兄妹で、出来が良く親孝行な兄を溺愛している母だったため、母の愛を獲得しようと私なりに必死だった背景があり、母娘の葛藤劇は長く続いた。

そのあたりの話は枚挙にいとまがないので省くが、とある事情から母と距離を置くようになり、実に6,7年だったろうか、顔を合わせることも電話をすることもない空白の期間があった。

自らそうしたはずなのに、そうしなければ私の精神が壊れてしまう理由があったのに、その間私は「親不孝」という罪悪感にずっとつきまとわれていたのだった。
実の母親と何年も会っていないとふと知人に漏らしたところ、そんな親不孝がよくできるね、お母さん大事にしなきゃだめだよと説教されて、事情も知らないのにな……とその場で石になったこともあった。


いろいろあってまたよりを戻し早20年。
心理学、親子のコミュニケーションを私もその間学んできたので、以前のように精神までやられることはなくなっているが(その間母もだいぶ丸くなったのもある)、やっぱり会う都度疲労する自分もいるのだ。


遅ればせながら気づいた。

私は母をものすごく愛しているけれど、残念ながら好きではない点が多い。

その、好きではないところが私を疲弊させる。

親を愛さなければいけない、好きでいなければいけないというのも、
愛しているイコール好き、というのも、
いずれも思い込みであった。
……刷り込みだったともいえよう。

逆に言えば、愛しているのだから好きでいさせて、という私のエゴだったのかもしれない。


たまに息子や娘を連れ立って施設に面会に行くと、ふたりからよく私と母は似ていると言わる。(ムカッ)
私が母とやり合うシーンでは、ふたりして大笑いしている。
私が苛立ちしか覚えない母の特質を、彼らはかわいいと面白がるのだ。

全く!


母は以前からボケたらあんたたちに迷惑かかるから、と脳トレドリルを解いていた。
私がたまに面会に行くと、この答えは何?と聞いてきてほとんどの面会時間をレクチャーに費やすこともあった。

でもさすがにこの一年は、本人も集中できなくなったとぼやいていた。


しかし、久しぶりに面会した息子と娘が、枕元に置かれた何冊もの脳トレドリルに気がついて、「おばあちゃんえらいなあ」といたく感心していた。


先日、体調悪く臥せっていると聞き見舞いに行った。
そのとき、衝撃的事実が発覚!

やはり枕元にドリルが置かれてあり、寝ながらもやっているのかと感心しかけたところ、

「これ4冊くらいがちょうどいいの」
と言って、母が枕の下にドリルを差し込み高さ調節していた……

そういうとこ、嫌いじゃないよお母さんw


小説も残りわずかになるとそういうことなのかと大筋が見えてくるものだ。
私と母の親子物語も、いま、伏線回収の真っただ中だな。

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