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【連載】戦後70年~第1部 埋もれた戦争【蔵出し】

※2020年、第2次世界大戦が終わって75年を迎えました。この記事は、2015年7~8月に「戦後70年」をテーマに都政新報で連載したシリーズをまとめたものです。私たちの足元に埋もれている戦争の記憶をたどった記事です。今年はコロナ禍で平和を考えるイベントが軒並み中止となってしまいました。改めて戦争と平和を考えるきっかけとなれば幸いです。

(1)防空壕/公園で静かに眠る遺構/薄れゆく記憶どう受け継ぐ(2015年7月14日掲載)

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 梅雨の中休みの平日、久しぶりの晴天に恵まれた公園では、近所の保育園の子供たちが歓声を上げている。場所は港区の南麻布。広場のすぐ南側にある斜面の遊歩道を下ると日本風の庭園や池がある。開園は戦前で、高台にある都立中央図書館を除けば、開園当時の風景が残されている。

 港区の有栖川宮記念公園には戦時中の防空壕が眠っている。そんなうわさを聞いて、地元の港区役所麻布地区総合支所を訪れた。

区民は活用を提言

 「防空壕があるという話は聞いたことがある。この担当になって初めてあると知った」

 総合支所の職員は戸惑いを見せた。区役所の本庁でも、この防空壕の存在を知る職員は少ない。まして実際に現場で目撃した職員はほとんどいない。「防空壕があった」という記録は書類で残っているものの、それをいつ、誰が、何のためにそこに掘ったのか明らかになっていない。

 戦前に編纂された『麻布区史』によると、有栖川宮記念公園は江戸時代には盛岡藩主南部美濃守の下屋敷で、明治維新後に有栖川宮邸用地となった。その後、有栖川宮の断絶により高松宮家の用地となる。1934年1月、当時の東京市に下賜され、東京市が総工費8万6500円を投じて整備し、同年11月に開園した。

 場所柄、戦前の宮家と防空壕との関係を邪推してしまうが、都市部に空襲の懸念が強まった第2次世界大戦末期には既に東京市の公園となっていた。都制の発足を経て、区に移管されるのは戦後の75年である。

 09年、区は「魅力ある有栖川宮記念公園づくりプロジェクト」を立ち上げ、区民参加による公園づくり事業に着手している。翌年、同プロジェクトは提言書を区に提出した。

 この検討の中で、区役所の職員から公園に防空壕があるという証言があったため、当時の職員やプロジェクトのメンバーが実際に防空壕を見学していた。提言書には園内にコの字型の防空壕の存在が記されていた。

 このプロジェクトの改修整備方針では、防空壕について存在を説明する案内板を設置することとし、付帯意見として「整備費用も含め、詳細な構造の調査を実施し、湿気対策などで倉庫としての機能を確保できるなら、防災関連施設として活用する」と記述している。区議会の常任委員会でも麻布地区総合支所の担当課長が「何らかの安全が確認されれば、いろいろな活用方法も考えられる。今年度は安全の調査をした後、活用について検討していきたい」と前向きに答弁していた。

 だが、これらの提言は実現しなかった。麻生地区総合支所では「建築基準法や消防法など法的な問題や安全性などにより実現には至らなかった」と話しているが、断念に至った詳しい経緯は分からないという。

 コの字型の防空壕は、高台の広場の地下に埋まっている。現在はうっそうと草木が生えている南側の斜面に出入り口があったが、調査の際に埋められたらしい。

帝都の防衛に資する

 取材を始めてしばらくして、港区から有栖川宮記念公園の防空壕の資料が本庁の公園担当にあると連絡が入った。

 資料はA4判で2枚。防空壕は南側の斜面から広場側に向かって幅1・1メートル、長さ9・3メートルの地下階段でつながっていた。本体は、幅3・4メートル、長さ6・2メートルの避難室が2部屋。便所やポンプ室、換気穴も備えたコンクリート製の本格的な防空壕だ。提言書と同様、出入り口が2カ所あるコの字型だった。

 82年と00年の2度、公園内の斜面で陥没があり、埋め戻し作業が行われているが、コの字型の防空壕以外にも何らかの地下壕があったことをうかがわせる記述もあった。だが、当時の資料はこれしかなく、区側は「これ以上のことは分からない」と答えるだけだった。

 東京でも空襲の懸念が高まってきた1943年10月、当時の都は地形を利用した横穴式防空壕の築造を勧奨している。

 当時の『都政週報第14号』によると、都内の旧市部(現在の23区)の丘陵地について調査したところ、有効に使用できる崖地が麹町、芝、麻布、小石川、下谷、品川、大森、渋谷、王子、板橋などに約100カ所あり、「帝都の防衛に資することが甚大」としている。壕の形態は、爆弾が落下して崩落する危険に備え、「入り口と出口を設備したコの字型が最も良い」とし、「壕の頂部を円にすることは土を崩壊させぬ型」と指導している。有栖川宮記念公園の防空壕と同じ形だ。

 ただ、空襲時に実際に住民が避難していたかどうかは分かっていない。住民避難用にしては設備が立派すぎるが、公園内に政府・軍関連施設があったわけではない。本土決戦に備えた軍部の作戦本部ではないかといううわさもあるが、想像でしかない。そこに戦時中の防空壕があった。それだけは確かだ。

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