チェロ弾き

チェロ弾き

作:ウダタクオ 2006年09月22日


チェロ弾き

 秋の夜、確かにその音色は全ての愛すべき人々へと流れていた。

 私は駅へと向かっていた。くそみたいな仕事は終わった。まるでゴミ溜めみたいな箱からやっと解放されたところだった。私は歩いていた。

 どこからともなく、そうだ、どこからともなくだ、弦楽器の音がしていた。

 自ずとそこへ魂が吸い込まれていった。

 私は気が付いたらそこにいた。

 年老いた一人の男がチェロを奏でていた。

 無造作に伸びた白髪、緩い着こなし、しわくちゃの顔、そして、くたびれたチェロ。

 完璧に時が止まった。

 なんてあたたかいのだろう。チェロを弾くたびにしわくちゃの顔をより一層しわくちゃにさせ、彼は音色を響かせる。

 いつしか私の目には涙が、視界がぼんやりして何も見えない。いや、初めから何も見えなくていい。

 言葉を交わさなくとも分かる。普通こんな音は出ない。

 まるでミシシッピ・ジョン・ハートだ。

 彼はとても豊かな声をしている。色んな辛い思いをしたからこそ、あんなに素敵な歌声なんだ。

 同じだ。伝わってくる、伝わってくる、感じるんだよ。

 もう一度言う、言葉を交わさなくとも分かる。

 音色や旋律が私に語りかけてくる。

 それは芸術との共存であり、彼との魂の触れ合いだ。

 悲し過ぎるほど愛に満ち、愛に傷付き、愛を失った男との会話だった。

「どうしたんだい?」

「どうしたもこうしたもないさ、私はチェロを弾いてるだけだ」

「そうだろうよ、おたくの演奏にはシェイクスピアも真っ青の悲劇だぜ」

「ふふふ、随分と面白い事を言うなぁ、若いの」

「あんたなら分かるはずだ」

彼はにやりとした。

「何があったんだい?」

「何もかもさ」

「だろうよ、分かるよあんたの気持ち」

 雑踏の中で老いた男のチェロが響く。

 そこを通る誰しもに聴こえている、聴こえているのに誰も見向きもしない。

 心はあるのに、感じているのに・・・。

 ぽろぽろ流れていくこの涙はなんだ!?最高だろ!

 一緒に煙草でもふかさないか?

 ここまで感情を、魂を、揺さ振られたのは初めてだった。

 そこに私が求めていたものがあった。

 人生を通して追い求めるロマンがあった。

 私のライフワークは決まった。気付いたのだ。

 私が永年追い求めていたものがそこにあった。

 電車に乗り込んだ時、私はチェロ弾きになっていた。

 私はチェロ弾きだ。

 愛を奏でるのだ。


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以下、あとがきです。


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