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人生について。(2023の考察)

いつか誰かの元に届くことを願ってこのブログを書いているのではない。

僕は今この多感な時期に、僕が思ったこと、感じたこと、考えたことを
とにかく書き綴って、残しておきたいのである。

文学作家の素晴らしいところは、自らが想い、感じた世界を言語化できるところにあります。
言葉として表現することの難しさ、日本語という、多分世界で最も表現について細分化された言語の中で、最も適していて美しい表現方法を知っているところに彼らの教養の深さを伺うことができます。

私もそうでありたくて、こうやって想ったことを、考えたことを文として起こしているわけです。

以前他の記事にも書きましたが、言葉には鮮度があります。

人間はすぐに忘れてしまう生き物なので、その時思ったことをその時のうちに綴って残していくことが必要だと思うのです。

その最も簡単な方法が日記です。
私はかれこれ3年書き続けている。

毎朝決まった時間にはとはいかないけれど、時間を作って書いています。

人間に与えられたのは等しく24時間ですので、時間を作るということが必要だと思います。
「時間がない」や「忙しい」というのは大抵、言い訳に過ぎないので、私はその隙間をいかに埋めるかということをよく考えています。

それはコップにどれだけパンパンにモノを詰め込んでも、最後には極めて僅かな隙間にも入ることができる水と同じです。




こんなことも、きっといつか若気の至りだと言う時が来るのだろう。

それでも僕は書くことを辞めない。

書くことは、向き合うことだから。

逃げることよりも十二分に立派で、人間らしい行為だと思っている。

たまに自分の過去の記事を振り返ることがある。

その時の僕がこんなこと書かなければよかったと思ったことは、現状一度たりともない。

むしろその逆で、あの時の僕はこんなことを考えていたのかとその時の感情を思い出す。
先ほども書きましたが人間は忘れてしまう生き物ですので、思い出すことが大切なのだと私は思います。


アーチストと同じで、僕も飢えているのだと思う。

生きる意味とか、存在理由とか、自分に何ができるのかとか…

はっきり言ってそんなこと考えるのは無駄なのだ。

しかしながら僕はどうしても考えてしまうくらい、悩みを巡らせてしまう…

であらば、その悩みも飢えも何もかも、どこかに吐き出してしまえばいいのです。

いうならばここは、僕にとってトイレのような場所で、あのアーチストが作品として世に出す行為にも近いでしょう。

しかしながらこれは、歌舞伎町を浮遊しながら居場所を求め、たむろするトー横の少年少女の不可解な行動とも似ている。

彼らと僕の違いは、共感者や追従者の有無くらいで、どちらも本心としてそんなものは求めていない。

求めているのは、ただ思ったことを吐き出し、自分が持つエネルギーをあるべきところへ返すための行為であり、その場所である。

そう、誰もが自分の居場所を求めているのです。

放出されたエネルギーはやがて誰かが(勝手に)受け取り、その当人もまた、あるべき所へ放出する。

やがてエネルギーは巡り巡って再び僕の元へ戻ってきて、それをまた僕が返す。

つまり万物のエネルギーは常に循環しているのである。

それに対して私という個体をはじめとした質量は、あらゆる形で保存される法則にあるので、エネルギーの放出や循環は質量が保存されるための手段ということになる。

時に形態を変えるが、ほとんどの場合は変わらないままだ。

そう、変わらないことの方が多いのだ!

人間の場合は死を除き、変えるためにはエネルギーを発出する当事者による意思が必要なのだ。

つまり人間社会で生きるためには、人間としてのエネルギーの発出が必要不可欠であり、その中で自身の形態を変える意識が必要なのである。

形態を変え続けた果てが死である。

しかしながらそれは悟りとも比喩できる。

生きるとはこういうことではなかろうか。

変化を恐れ、万物に慄き、内側にこもっているだけの人間など、自然の摂理であるべき行為を怠って腐っていくだけだ。




これらはある種哲学的な視点で捉えているので、私のナルシズムとも言える。




言いたいことはとにかく、変化を恐れてはいけない。
未曾有のことから逃げてはならないのです。
ヒトとして生きるためには、自らが立ち向かい、自らが変容することが最も簡単で単純明快な方法なのです。

生きる意味とか、やりがいというのは、その最中の苦楽にあり、
幸せというのは、その果ての結果を俯瞰した時にだけ、見つかるものだと思います。


貴方の日常生活はどうだろうか…

少なくとも私は、この記事を再び読み返したときに思い出して、再び行動できる人間でありたい。

写真家の藤原新也氏はこう言った。

「つかみどころのない懈慢な日々を送っている正常なひとよりも、それなりの効力意識に目覚めている痴呆者の方が、この世の生命存在としては優位にあるのだ。」

「私は後者の痴呆の方を選ぶ。」

2023の私は、この考えに大いに賛成している。

5.7.2023 人生についての考察

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