見出し画像

リセマラは「恥」であり「冒涜」であるという主張

はじめに

「リセマラは恥であり冒涜である」——そんな言葉が口を衝いて出たことに、私は少し驚きました。

思いがけず強い言葉だったこと以上に、自分自身の発言なのにその真意を咄嗟に理解できなかったからです。

一体リセマラの何が「恥」で何が「冒涜」だと言うのか、その自問自答の結果を書き残しておきます。

※「恥」も「冒涜」も、個人の主観に依るところが大きい言葉です。このnoteはあくまでも私の考えを書き捨てたものであり、異なる思想を攻撃したり否定したりする意図はありません。ご了承ください。

リセマラは「恥」である

リセマラは恥であると考える理由を自問した結果、「不当な行いに自ら進んで手を染めているから」という結論に至りました。

リセマラの肝は、一度しか享受できないはずの利益を、時間の許す限り何度も獲得し、それを用いて望んだ結果を入手することにあります。

ここで言う一度しか享受できないはずの利益とは、無料チュートリアルガチャ、ステージクリア報酬、各種キャンペーン配布アイテムなどを指します。

これらは本来、そのゲームのプレイヤー一人に対して一度しか与えられないはずの利益です。それをアカウントの再取得などの方法で何度も手に入れて利用する行為がリセマラです。

例えば、量販店でお一人様一点限りの購入制限をお願いしている商品を、同じ人が何個も購入することを考えてみます。

この行為はお店側が対策を講じていなければ誰でも簡単に実行できますし、日本の法律に反する行為でもありません。しかしこの行為を全く問題がないと考える人もいれば、道徳的に問題があると考える人もいます。私は後者です。道徳的に問題があること、道理から外れていることを不当と表現します。

店舗の在庫は有限でゲーム内の電子データは無限という違いはありますが、この2つの行為は本質的に同じだと私は考えます。合法的ではあるが道理に外れた手段で利益を掠め取る行いであり、そこから受ける印象は意地汚い、あさましいといったものです。

不当な行為であるという自覚がありながら、それを自ら進んで行うことは人として恥ずべきこと。だから私にとってリセマラは「恥」です。

リセマラは「冒涜」である

リセマラが恥だと理解すれば、続く疑問にも自ずと答えが出ます。

私はゲームが好きです。様々なコンテンツの供給が飽和しているこの社会で、わざわざゲームを遊んでいるのはゲームが好きだからです。

そして私は大好きなゲームを心底楽しむために、私自身が何の後ろめたいこともない健全なプレイヤーであることを確信したい。

例えば改造やチートで何かを成し遂げたとしても、きっと楽しくないでしょう。極論ですが、リセマラも私にとっては同じことです。最強の戦力を調えたとしても、大好きなキャラクターを手に入れたとしても、それを不当な行いで実現したという消せない事実があっては、後ろめたさが拭えません。

全うに手に入れていれば胸を張って誇れたはずのそれらを、延いてはそのゲーム自体を貶めてしまう。心の底から楽しめなくなってしまう。だから私にとってリセマラは「冒涜」です。

リセマラは「悪」なのか?

ここまで述べた通り私はリセマラに対して否定的な意見を持っていますが、他人がやるぶんにはそれを制止したり非難したりするつもりはありません。

何故ならば、リセマラは「悪」とは言えないからです。

私は「悪」の構成要件として、「自由を侵害される誰か」の存在が不可欠だと考えています。その点、リセマラは誰の自由も侵害しません。

プレイヤーはリセマラするかしないかを自由に選択できます。どちらかを強制されることはありません。リセマラしたことで、あるいはしなかったことで何らかの不利益が生じたとしても、それは自由に選択したプレイヤー自身の責任です。自由の侵害が発生するとは言えません。

開発者にとってリセマラは悩みの種の一つかもしれません。サーバには無駄なデータが溜まり続け、過剰な通信量によるシステムへの負荷も無視できない。しかしこれらは、リセマラを許容するゲームをリリースした開発者の責任です。リセマラできないように、あるいはリセマラさせないように工夫を凝らすことは、容易ではありませんがいくらでもできます。そのコストとリセマラされるリスクを天秤に掛けて、どちらを取ったかというだけの話です。自由の侵害と言えるような事態ではありません。

従ってリセマラは「悪」ではない、というのが私の主張です。悪いことじゃないのでやりたい人はどんどんやっていいと思います。

ただ一度のリセマラ

こんなことを言っておいて何ですが、実は一度だけとあるゲームでリセマラを試みたことがあります。

そのゲームは、当初好きでもなく冷やかしに遊んでやろうくらいのつもりで、それならせっかくだしリセマラを体験してみるかと考えた次第でした。プレイヤーとして最低の心持ちだったと思います。

そのリセマラがどうなったかというと、確か30分と経たずに止めました。費やした手間と時間が全て無に帰す感覚に耐えられなかったからです。賽の河原の石積みを連想する苦痛でした。

どんな理由、どんな目的にせよ、あんな苦行を何時間も続けるためには並大抵ではない精神力が必要だと感じました。あるいは常軌を逸した狂気かもしれません。

結局そのゲームは普通に遊び始めてもうすぐ3年が経ちます。推しもたくさんできました。中断したとは言えリセマラをした事実は消えませんが、リセマラがもたらすむなしさを実感できたことは貴重な経験でした。

リセマラは「当たり前」になりすぎた

SNSを見渡せば、当然のようにリセマラが行われていることがわかります。私のような意見の持ち主が少数派であろうことは容易に想像できます。冒頭でわざわざ※印付きで注意書きをしたのも、多数派への配慮です。

「一日中リセマラしてやっと出た」「最強リセマラランキング!」「このゲームリセマラした方がいい?」——あまりにも多くの人が当たり前に行っていることは、いつしか社会に受け入れられていきます。そうして形成された一般的な価値観のことを、常識と呼びます。

今や新作ゲームがリリースされたら、まずリセマラをするのが常識と言っても過言ではないでしょう。そういう歴史が様々な人の手により築き上げられてしまいました。これは今更どうすることもできません。この常識をひっくり返すような変化が起こらない限り、リセマラという文化はいつまでも続いていくのでしょう。