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令和日本紀行 -10: 安房国の旅

今まで訪れた日本国内の地域の地理・歴史について、記録しています。今回は、千葉県館山市、南房総市、鋸南町等にあった安房国について書きます。南総里見八犬伝の舞台として有名ですが、戦国時代における里見氏の波乱万丈ぶりは、物語よりも面白いかもしれません。最後に、館山出身の故福原義春氏についてもご紹介させていただきます。

本年8月30日、青春18きっぷによる房総半島の日帰り旅を楽しんだ。
最も印象に残ったのは、鋸山だった。東京湾が一望できる海岸から切り立つような断崖は、人里離れた秘境の地を思わせる。しかし、鋸山の大半が「東海千五百羅漢」で有名な日本寺の敷地である。日本寺は、奈良時代、聖武天皇の勅詔と光明皇后の言葉を受けた行基菩薩によって、開山されたらしく、安房国と呼ばれた房総半島のこの地は、全くの未開地ではなかったようだ。

鋸山山頂と日本寺大仏を結ぶ日本寺境内のメインルートに配された羅漢群(石仏群)

「古語拾遺」という文献によれば、現在の徳島県に当たる阿波国を支配していた天富命他が、東国に新天地を求め黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸し開拓を進めたので「阿波」と呼ばれたとのこと。律令制度において、国名が同一では拙いので、「安房」という漢字を当てたらしい。

安房国の国府は、現在の南房総市府中付近に置かれていた。平安時代後半に武士団が割拠し、1180年、平家打倒の旗揚げをした源頼朝が石橋山の戦いで敗北した後に再起した地として、知られることになる。戦国時代になって、里見氏が台頭し、安房統一を果たして上総から下総の一部に至るまでを勢力圏とした。
南総里見八犬伝では、北条氏と里見氏の確執が記されたが、史実はもっと生々しい。第5代当主の里見義堯は、里見分家に生まれたが、北条氏綱の支援を受けて、従兄である里見本家当主の里見義豊を殺害し、家督を奪った。里見義堯は、北条氏からの圧迫に、水軍を組織して対抗したが、息子の里見義弘の代で北条氏政との間で和睦して、かろうじて独立を保った。
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐において、里見氏は最後まで旗幟を明らかにせず、遅参したこと、そして無断で三浦半島へ渡海進軍し惣無事令に違反したことから、上総国などの領土を没収された。NHK大河ドラマ「どうする家康」第37回「さらば三河家臣団」では、本多忠勝が上総国万喜(大多喜)を所領として与えられたシーンがあったが、豊臣政権として、水軍を擁する里見氏を警戒した配置であったと考えられる。
1600年の関ヶ原の戦いにおいて、東軍に加わった里見氏は、常陸鹿島領3万石が加増され、12万2千石の大名となり、館山藩として存続しそうに見えた。しかし、1613年、藩主の里見忠重が突如改易され、さらに大久保忠隣失脚に連座して安房国を没収され、伯耆倉吉3万石に転封された。実際には糧米はほとんど与えられず、お取り潰しとなった。

里見氏の居城跡を整備した城山公園の頂上に聳える館山城(八犬伝博物館)

里見氏が去った後の館山藩は、稲葉氏により統治され、幕末を迎える。廃藩置県で館山県となったがすぐに木更津県に吸収され、現在の千葉県の一部となった。
明治時代には、館山は、漁港として栄え、東京湾汽船会社が東京 - 館山航路を開設した。1939年に館山市が成立。前後として、館山航空基地が整備され、館山海軍航空隊、州埼航空隊、海軍砲術学校などの設置により、第2次世界大戦中は軍都として発展した。戦後は、港湾都市となったが、現在は、南総里見八犬伝をテーマとした、館山城(八犬伝博物館)などの観光による地域振興に力を入れている。

館山城(八犬伝博物館)の展示

最後に、館山市出身の偉大な人物、福原義春氏を紹介したい。祖父の福原有信氏は、安房国松岡村の郷士として生まれ、大学東校(現在の東京大学医学部)の職員となり、海軍病院薬局長を退官した後、民間初の洋風調剤薬局となる資生堂を銀座に開業した。
資生堂を世界的な化粧品メーカーにしたのは、間違いなく、三代目の福原義春氏の功績である。趣味の洋ラン栽培や写真も玄人はだしで、財界屈指の文化人として、日本企業のメセナ活動を推進した。

8月30日午後2時頃、私が鋸山を下山し、JR内房線浜金谷駅で乗車した列車で館山駅に到着した後に、福原義春氏は老衰で逝去された(享年92歳)。
奇しくも偶然ではあるが、私が南総里見八犬伝など地域文化の重要性を再認識した時刻に亡くなられた福原翁の冥福を祈りつつ、今後も、「令和日本紀行」を投稿していきたいと思う。

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