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音楽家と歴史・社会 -15: ヘンデルと英王室

主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。昨日(2023年5月6日)のチャールズ国王の戴冠式を記念して、英王室ゆかりの作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685年 - 1759年)について書きます♪

本日午後、新宿フィルハーモニー管弦楽団(アマオケ)の定期演奏会で、組曲「水上の音楽」を聴いた。英国のテムズ川での王の舟遊びの際に奏でられた一連の器楽曲だ。また、昨日のチャールズ国王の戴冠式において、「ジョージ2世の戴冠式アンセム」中の「司祭ザドク」が演奏された。
どちらも、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(以下「ヘンデル」)による名曲だ。

ヘンデルは、ブランデンブルク=プロイセン領(現ドイツのザクセン=アンハルト州)のハレに生まれた。幼少時から非凡な音楽の才能を示し、息子を法律家にしたかった父親から隠れて、屋根裏部屋でクラヴィコードの腕を磨いた。 1702年にハレ大学に入り法律学を学ぶ傍ら、ハレ大聖堂のオルガニストになる。さらに、ベルリン王宮にて、後に初代プロイセンの王となるフリードリヒ3世から宮廷への就職等を提案されたが固辞したらしい。 1706年から1710年までイタリアの各地を巡り、作曲したオラトリオは大好評を博した。
1710年、ハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒの宮廷楽長に任じられたヘンデルは、直後に1年間の長期旅行の許可を得た。その年の暮れに英国のロンドンを訪問したヘンデルは、アン王女の歓待を受け、作曲したオペラが大評判となる。
一旦ハノーファーに帰国したものの、1712年、ロンドンを再訪問。ハノーファー選帝侯からの帰国命令を無視して、住み着いてしまう。1714年のアン王女の死去の後、何と(イギリス王位継承権がプロテスタントに限定されたため)英王室と親戚関係にあったハノーファー選帝侯が、ジョージ1世として英国王に就任する。しかし、特にお咎めもなくかった。国王は以前よりヘンデルの才能を認めていたのだ!
かくして、ヘンデルは、英王室のための作曲にも勤しむことになる。

ジョージ1世、息子の2世たち王室のテムズ川での川遊びは、1715年、1717年及び1736年に行われたと記録されているが、ヘンデルが作曲したどの曲がどの川遊びで演奏されかは不明である。1717年の新聞記事に、50人の器楽奏者が乗り込んだ屋形船で、ヘンデルの楽曲が演奏された書かれている。
これら一連の川遊びの音楽の完全な自筆譜は残されておらず、演奏の際のパート譜を基に約20曲が編纂され、組曲「水上の音楽」となった。そのうち第2組曲の「アラ・ホーンパイプ」が有名だ。
なお、現代の演奏会においては、アイルランドの作曲家・指揮者のハーティが1922年に6曲を選んでオーケストラ用に編曲した版が用いられることが多いようだ。

1727年に、ヘンデルがジョージ2世の戴冠式のために作曲した「戴冠式アンセム」のうち、第1曲目の「司祭ザドク」は、歴代の英国王の戴冠式において演奏されることなった。まさに24時間前にロンドンで演奏されたばかりだ!(この記事のタイトルにYouTube動画の写真をつけた)

ヘンデルは英国に帰化し、英王室との良好な関係を築きつつ、「メサイア」、「王宮の花火の音楽」などの傑作を生み、富と名声の両方を手にした。
74歳で息を引き取る直前に、自分の葬儀がひっそりと執り行われることを希望したヘンデルであったが、埋葬地のウェストミンスター寺院に、約3千人の民衆が押し寄せて、名残を惜しんだという。
才能ある外国人のヘンデルを大事に扱った英王室と、英国人の懐の大きさを感じさせる逸話ではなかろうか? 

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの肖像画(1726年から1728年)

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