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音楽家と歴史・社会 -13: シューマン夫妻とブラームス

主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。今回も、ロベルト・シューマン(1810-1856)、クララ・シューマン(1819年-1896年)そしてヨハネス・ブラームス(1833年-1897年)について書きます♪

私がこの主題にこだわる理由は、約50年前の小学生時代の思い出からだ。私は、半年間程、基地外シューマンと呼ばれていた。音楽の時間に、美しき女性教師がシューマン夫妻とブラームスの逸話を紹介したからだ。ロマンチックな話題のはずなのに、発狂して大河に飛び込む男の鮮烈なイメージがクラスの中で蔓延。当時ADHDの概念はなかったが、そのものの私は、どぶ川に飛び込む、ガイ基地とされた。同時にクラス一番の美少女は、クララと呼ばれ、二人は囃し立てられた♪ただ、彼女はピアノは弾いていなかったが。

当時より、さらに120年程遡る。1854年、半年前(1853年10月1日とされる)のブラームスの訪問を歓待したシューマン一家(デュッセルドルフ)に悲劇が襲った。ロベルトがライン川に飛び込んだのだ。ブラームスは、即座に駆け付け、ロベルトを見舞うととともに、クララと子供達の世話をする。私は、これが逆効果だったと思う。ロベルトは、23歳も年下の寡黙な美青年に愛妻が獲られるとの疑念で、精神病が悪化したのではないか?

この頃、ブラームスは、ピアノ四重奏曲ト短調作品25(40分以上で長い!)の作曲に取りかかる。ロベルトから、ピアノソナタではなく、ベートーヴェンを継ぐ者として交響曲への挑戦を勧められたからだろう。

ロベルトがそのさわりを聴いたかどうか不明だが、1856年に精神病院で死去。

なのに、ブラームスは、その前年、クララへの手紙で、親愛な相手に対する呼称を使っていた(関係の変化!)。この事実を基に、「ドシララ(ドイツ音名でC-H-A-A)」と交響曲第1番ハ短調作品68の伝説が生まれることになる。

次回、その核心に迫りたい♬

ヨハネス・ブラームスの写真

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