音楽家と歴史・社会 -38: メンデルスゾーンが活躍したライプツィヒ・ゲヴァントハウス
主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。
前回に引き続き、天才音楽家メンデルスゾーン(1809年 - 1847年)について書くとともに、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の歴史を紹介します。
ベルリンから約150km離れたライプツィヒにあるゲヴァントハウス(Gewandhaus)は、初代が1781年11月に建造されたコンサートホールであり、現在は、1981年に竣工した3代目。ライプツィヒの中央駅から、路面電車で5分、徒歩でも15分の場所にある。
「GEWAND」はドイツ語で「衣服」を意味する。織物の倉庫や取引所として使用されていた建物の中を本拠地としたゲヴァントハウス管弦楽団は、1743年に世界初の市民階級によるオーケストラとして発足した。宮廷専属のオーケストラとは異なり、入場料さえ払えば誰でも演奏を聞けるようになったのだ。
このゲヴァントハウスを大きく飛躍させたのが、フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(以下「メンデルスゾーン」)である。
メンデルスゾーンがベルリン・ジングアカデミーで活躍したことは、前回紹介した。
1832年、ジングアカデミーの指導者のカール・フリードリヒ・ツェルターが死去した際、その愛弟子であったメンデルスゾーンが後継者になることが期待された。しかし、翌年の指導者選挙で票を多く集めたのは、能力は劣るが年配で的確な判断ができると目されたカール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲンであった。
当時のベルリンの有力者達の間に「若いユダヤ人」(メンデルスゾーン当時24歳)を指導者にすることに躊躇いがあったと考えられる。
生涯最初の挫折により、心に深い傷を負ったメンデルスゾーンは、指導者代理になる誘いを断り、姉ファニーと妹レベッカとともに、ジングアカデミーを去った。
(最近、日本の政界でも似たようなのことがあった・・・)
再起を期したメンデルスゾーンは、ライン河畔の小さな商業都市デュッセルドルフの音楽監督に就任し、構想に3年を費やした交響曲第4番「イタリア」を完成させるなど、新境地を開こうとする。
そして、1835年、メンデルスゾーンは、ライプツィヒに移り、ゲヴァントハウスの指揮者となった。
ライプツィヒは、世界で初めて新聞が発行され、見本市(ライプツィヒ・メッセ)が開催された都市である。市内のトーマス協会少年合唱団を指導するトーマス教会音楽監督(トーマスカントル)のうち、最も著名なヨハン・ゼバスティアン・バッハについては、近いうちに書きたい。
1835年10月4日、メンデルスゾーンは、初めてゲヴァントハウスの指揮台に立ち、序曲「静かな海と楽しい航海」、ヴェーバーとケルビーニの歌曲等に加えて、ベートーヴェン作曲交響曲第4番を演奏した。
同年11月9日、クララ・ヴィーク(後にロベルト・シューマンと結婚)、ルイ・ラーケマンと一緒に自ら、バッハ作曲3台のチェンバロのための協奏曲第1番ニ短調を演奏した。
そして、翌年、ベートーヴェン作曲交響曲第9番を指揮し、大好評を博した。この頃は未だ、この「合唱」付き交響曲は、ベートーヴェンの最高傑作としての評価はされていなかったらしい。
ライプツィヒでの充実した音楽活動の合間、1936年にフランクフルトを訪れたメンデルスゾーンは、フランス人牧師の娘、セシル・ジャンルノー(当時19歳)と出会い、恋に落ちた。
翌年にセシルと結婚し、円満な家族生活を送るメンデルスゾーンは、ゲヴァントハウスでモーツァルトやベートーヴェンなどの名曲を指揮した。
そして、最大の功績は、盟友ロベルト・シューマンからの依頼に基づき、フランツ・シューベルト作曲交響曲第8番「大ハ長調」(「ザ・グレート」とも呼ばれる)を1839年3月21日に初演したことであった。
(注)「音楽家と歴史・社会 -34: 大作曲家シューベルトの実像に迫る」を参照のこと
また、メンデルスゾーンは、1843年、「ライプツィヒ音楽院」を設立し、初代院長に就任した。ドイツの音楽大学の草分けであり、日本から1901年に瀧廉太郎が留学したことでも知られる。
メンデルスゾーンにより、専門家の育成が計画的になされたライプツィヒの音楽界をバックにして、ゲヴァントハウス管弦楽団は、ドイツを代表するオーケストラとなって、今日に至った。
私は、メンデルスゾーンは、ユダヤの出自から来る劣等感を秘めながら、ベルリンの支配者階級に対する憤懣を晴らすため、ライプツィヒで頑張った側面もあったのではないかと、個人的に想像している。
次回、メンデルスゾーンの晩年、歌姫ジェニー・リンドとの関係その他業界事情を描く予定である。