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音楽家と歴史・社会 -12: クララ・シューマンの偉大な才能

主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。前回に引き続き、ロマン派の中のロマンとして、クララ・シューマン(1819年-1896年)についてです。ヨハネス・ブラームス(1833年-1897年)との出会いも少しだけ♪

クララ・シューマンは、高名なピアノ教師フリードリヒ・ヴィークの次女として生まれた。クララは、9歳で、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とともに、モーツァルトのピアノ協奏曲を弾き、ドイツ地域(当時はその国家の概念はなかった)で天才少女として知られた。父フリードリヒは、才能あるクララだけを英才教育し、他の子の育児は放棄していたらしい。その甲斐もあって、12歳の頃にはモーツァルトの再来として、ヨーロッパ中を演奏旅行した。

ロベルト・シューマンとの結婚については、前回書いたので割愛する。

クララはピアニストとしてだけではなく、作曲家として高い能力を有していた。ロマンス変奏曲、音楽の夜会、前奏曲とフーガ、ピアノ協奏曲イ短調など、多くの作品を残した。しかし、当時は、女性による作曲を正当に評価してもらえず、37歳頃に作曲家としての道を自ら閉ざしてしまう。

2019年11月、私はフランクフルト・アン・マインで開催されたIAF総会への出席の際、会議場の近くで開催されていたクララの特別展に立ち寄った。ドイツ民族にとってのクララは、特別かつ神聖な存在。それらを象徴する展示品を撮影したので、ここに示す。読者の皆様に、彼女の偉大さを感じていただけることを祈る。

さて、これらの写真の一枚に、小太りの男性のシルエットの置物がある。ヨハネス・ブラームスだ。

1850年、17歳のブラームスは、尊敬するロベルト・シューマンに、自作の楽譜を送って批評を求めたが、既に精神的に不安定になっていたロベルトは、封を切らずに送り返してしまう。ブラームスは多大なショックを受けたものの、立ち直り、ピアノソナタ第1番、第2番を作曲する。

1853年9月、ブラームスは、鬼才ヴァイオリニストのヨアヒムの紹介を受けて、デュッセルドルフのシューマン邸を訪問。今回は、ロベルトとクララから大歓迎を受けた。ブラームスが弾いたピアノソナタ第1番は、二人を深く感動させ、「変装した交響曲のようなソナタ」と言わしめる。

ロベルトは、若きブラームスを「闘志」として称える批評を発表。これにより、ブラームスは、ベートーヴェン以来の音楽芸術の後継者として、歩み始めることとなる。

2023年3月23日、私は、KAJIMOTO様が主宰する小菅優の「ソナタ・シリーズ」(開花)において、ブラームスのピアノソナタ第3番を初めて聴いた。上述のとおり、ブラームスがクララと初めて会った頃に完成された本曲は、ドラマティックな冒頭から波乱含み。私なりに感じるものがあった♬
その後、ブラームスは、ピアノソナタを作っていない。(続く)

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