【追悼・大林宣彦】『花筐』は“大林映画”の到達点にあらず、ただただ“映画”をつくりつづける大林宣彦の現在にほかならない

 大林宣彦は、誤解されつづけてきた映画作家である。その作品に批判的な方面からだけでなく、いわゆる熱心な大林フリークからも少なからず誤解されてきた。それはごく一般的なレベルでは無理からぬことでもある。大林作品は、一見して受ける印象と、その深層にあるものの大衆的浸透にひらきがあり、前者の要素、すなわち情動に訴えかけてくる面だけでも存分に映画的快楽を享受したというカタルシスがあるからだ。そして実際、大林フリークの多数派はその圧倒的な情動にこそ共鳴する。一方、批判的な者は、同じくその情動の表出にみずからのそれとは相容れぬものを感じ取り、ほとんど生理的なレベルで拒否感を示す。その結果、大林作品は、誤解とともに愛され、誤解とともに嫌われつづけてきたように思えるのだ。それは、大林フリークを自認する者にさえ、彼の作品を限定的に愛する者が少なくないという事実からも読み取れる。たとえば個人映画時代の作品と商業映画進出後の作品を分断して語ったり、尾道三部作のみを突然変異的な名作と評したり――無論、個人の好みがあるのは当然としても、これらの峻別は大林宣彦という映画作家をそれこそ限定的な評価に押し込め、誤解を広めることになりかねない。

 『花筐/HANAGATAMI』もまたとてつもない映画だが、それゆえに、その映像表現やメッセージを、大林作品の系譜のなかでことさら特殊視するのは避けるべきだ。
 たとえば、大林作品における純文学性の問題――。『花筐/HANAGATAMI』は、檀一雄の短篇小説『花筐(はなかたみ)』の「映画化」だが、他の大林作品と同様、きわめて周到な脚色がほどこされている。まず大きいのは、主体の転換だ。原作小説は、本篇のまえに序章が置かれ、これがある客観的観察者によって書かれた“物語”であることが示される。だが、映画における主体(僕)は物語の主人公たる榊山俊彦であり、しかも彼という主体は、太平洋戦争前夜(原作は日中戦争が勃発した昭和十二年に発表されたが、映画は太平洋戦争が始まる昭和十六年を時代背景とする)を生きる十七歳の榊山俊彦、敗戦後の七十年を生き残った榊山俊彦、そして『花筐』という「物語」をわれわれに説き伝える榊山俊彦らしき人物の三者から成り立つ。これにより、映画は原作の精神性を丁寧にすくいあげながらも、若者たちの人物像や関係性に新たな光(あるいは影)を差し当てている。最も興味深いのは、物語を締め括る美那(矢作穂香)の手紙の内容、その意味するところが原作小説とは微妙に、しかし確実に変わっている点だろう。いま、榊山俊彦らしき人物と書いたが、映画の最初と最後に登場し、観客に語りかける青年が榊山俊彦だとすると、その役名に、演者窪塚俊介と監督大林宣彦の名前が一字ずつふくまれているという事実が、単なる偶然(俊彦という名前は原作のままである)を超えた必然性を帯び始める。そして、周到な大林は、この俊彦らしき人物の背後にみずからのディレクターズチェアを入れ込む。こうして俊彦が口にする「この僕は……」の「僕」が誰のことを指すのかはもはや言及するまでもあるまい。

 文藝別冊『大林宣彦』(河出書房新社)所収の座談会で、大林はこんなことを語っている。
「純文学では、登場人物は作家自身でしかない。書いた人しかそこにいないんです。だから僕の映画には僕しかいない。で、僕の映画を観てくれた人にとっても、それを観た自分しかいない。皆、自分事になるんです」
 そう、大林作品にはつねに「僕」という主体しか存在しない。『時をかける少女』(83)が筒井康隆原作のSFから紛れもない純文学に転生したのも、『廃市』(83)における「僕」という語り手を大林自身が担っているのも、『ふたり』(91)のラストで大林(と久石譲)が歌うテーマ曲が流れるのも、単なる作家の気まぐれなどではなく、明確な純文学=純映画観に裏打ちされた必然的帰結なのである。
 そして、さらに重要なことは、この純文学性、つまり個人的志向性が、大林作品においてはきわめてジャーナリスティックな視点をも内包していることだ。大林には、自身語るように、これまで“意識的ノンポリ”として振る舞ってきた面がある。しかし、その後景にはつねに特有の時代観や政治観が見え隠れしていた。可笑しくせつない思春期映画の名作とされている『転校生』(81)にせよ、故郷尾道へのノスタルジィを前景に失われゆくもの、死にゆく者への哀悼を示した『野ゆき山ゆき海べゆき』(86)にせよ。大林作品は、“プライベートフィルム”という言葉をもって称揚もされ批判もされるが、このような後景としてのジャーナリズムまで読解しえた言説は思いのほか少なく、そのことが大林作品に対する誤解を長く蔓延らせてきた要因となっているように思う。あげく、戦争を題材とした近作群をして大林作品のジャーナリズム化が突然起きたように喧伝するのは滑稽で冒涜的な行為ですらある。

 たしかに、震災の衝撃を経て完成された『この空の花 長岡花火物語』(11)以降の作品は、まさに“意識的ノンポリ”を捨て去った大林が、ジャーナリズムとしての映画作法を前景化させた賜物と見ることもできるだろう。しかし、映画の中核をなすものが変節したかというと、実際にはなにひとつ変わっていない。『花筐/HANAGATAMI』を観て、筆者がまず感嘆したのも、その恐るべき一貫性である。ここではたしかに反戦と平和に対するメッセージが明確に打ち出されているが、同時に、純粋なる若者たちの、戦争という恐怖と拮抗するほどの悪意が強烈に描き出されてもいるからだ。
 その恐怖と悪意の混合世界を描出するのに、大林はここでも彼の個人的イメージを総動員してみせる。原作に描かれた青い海のうしろに松林が広がる風景は、瀬戸内海を眺めて育った大林の内的風景と、『EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(67)などの個人映画に登場した雑木林の木立を混合させたような風景として映画に立ち現れる。
 『いつか見たドラキュラ』といえば、俊彦のおばである江馬圭子(常盤貴子)は、若者たちにとって憧憬の対象であると同時に、まるで彼らの生気を吸い出す吸血鬼のような存在でもある。彼女は夫を戦地で失い、義妹の美那と古い邸宅に暮らしているが、その姿にはどこか『HOUSE/ハウス』(77)のおばちゃま(南田洋子)が重なる。いや、この物語があらかじめ生命を奪われた“生ける幽霊”の物語であることは、俊彦たちが通う大学予備校で教授(村田雄浩)がエドガー・アラン・ポー(原作ではオスカー・ワイルド。ちなみに、大林監督の未映像化企画の一つに、ワイルドの『カンタヴィルの幽霊』がある)について講義するくだりでも明らかだろう。
 こうした若者たちをめぐる危うさと、そんな危うい青春をもまるごと飲み込んでしまう戦争の恐ろしさが、キエルケゴール記すところの「死に至る病」として、“血”“飛翔”“叫び”といったイメージを経由しつつ壮大なクライマックスを形づくってゆく。

 これらイメージの奔流と集約をあますことなく受け止めるためには、繰り返すが、大林作品の系譜とその根幹に息づく大林宣彦という映画作家の性質を正確に理解しなければならない。大林作品は、個人映画、もっと言えばまだ習作ともつかない“フィルムあそび”の段階から現在まで、すべてが途切れることなくつながっている、いわば“映画”という生きた運動体なのだ。だから、『花筐/HANAGATAMI』という作品を単体で取り出して安直に評価を下すことは、とりもなおさず“大林映画”という運動体を静止させてしまうことにほかならない。
 大林映画を運動体ととらえ、観客もまたそれと共振する運動体として作品に向かい合う、すなわち“同行二人”の態勢に入ったとき、初めて大林映画は本来の貌をあらわにするのだ。
 そして、ここからが真に戦慄すべきところなのだが、運動体としてあらゆるものとつながり、重なってきた大林映画は、やがて現実世界ともことごとくリンクしてしまう。いや、大林映画はつねに厳然と息づいていたのだから、むしろ現実のほうが大林映画とつながり、重なってしまったととらえたほうがよいか。

 戦争が迫りくる時代。さらには、大林宣彦自身の身体の問題までも、『花筐/HANAGATAMI』はあらかじめ予期していたような気がしてならない。これが大林宣彦と映画との同行二人によってもたらされた“ウソからマコト”とすれば、映画からなにを受け取り、どう現実を生きてゆくかということに、大林映画とやはり同行二人で歩むわれわれの未来はかかっている。だから、『花筐/HANAGATAMI』を大林映画の到達点ととらえるような誤解はもうやめにしよう。ここにあるのは、大林宣彦によってつくられつづける映画の現在であり、大林宣彦という映画作家の現在であるのだから。
(『花筐/HANAGATAMI』劇場用パンフレット、2017年)

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