【書評】十河進『映画がなければ生きていけない 2010-2012』――飾り気のない文章の旨み

 書店や図書館の映画本コーナーを回遊していて、それまで聞いたことのない著者の面白い文章に出くわすと、なんだか得をした気分になる。
 十河進の文章を目にしたのもまったくの偶然だった。もっとも場所は書店や図書館ではなくインターネットのメールマガジンである。
 「日刊デジタルクリエイターズ」というメルマガに連載されているそのエッセイ「映画と夜と音楽と…」は、タイトルに「…」と付くように、映画や音楽だけにとどまらず、十河氏が自身の生活動線のなかで見たり聞いたりした事柄が一読する限りでは雑多に、しかしよく読むとある明瞭な視点のもとに綴られている。この種の映画エッセイは、本誌における川本三郎氏の連載など一部の例外を除いて、いまではほとんど見かけることがない。以来、僕は十河進の愛読者となった。そしてまもなく、この十河氏が、かつて八ミリ映画の専門誌「小型映画」で双葉十三郎や佐藤忠男の連載を手がけた敏腕編集者であることを知った。
 その十河氏のメルマガの文章を集成した最初の批評集が二〇〇六年に水曜社から刊行され、すぐに購入したものの、いつもの悪いクセで(ソファ読書には躊躇してしまうそのボリュームもせいもあるが)そのまま積読していた。今回、二〇一〇年一月から二〇一二年一〇月までの連載分をまとめた本書を通読し、その飾り気のない文章(と何気なく書いたが、書き手としての自我を抑制して「飾り気のない」文章を書きつづけることは本当にむつかしいのだ)にあらためて心酔した。
 あまりに飾り気がないので読みとばしてしまいがちだが、時折きわめて史料的価値の高い証言が出てくる点にも注目だ。「ぴあ」休刊の話題に始まり、自身の学生時代と就職、そして「ぴあ」とのかかわり(この文章中に名前が登場する「菊池さん」とはおそらく僕の元上司である某映画評論家女史のことだろう)を綴った一篇や、山根貞男の映画批評から加藤泰監督の思い出へと話がつらなる一篇も味わい深いが、なかでも白眉は「一九七七年の西條八十」と題された一編だろう。ねじれたルサンチマンから角川の映画商法に反感を抱きつつ、『人間の証明』に引用された西條八十の詩に傾倒した青春期。その苦さが胸に迫る。
(「キネマ旬報」2013年4月下旬号)


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