わが窮状

 物心ついてから、どこよりも安息の場所だったはずの映画館に、もう半年以上、足を運んでいない。
 時折、部屋でDVDやブルーレイディスクを観ることもあるが、集中力がつづかず、あまり頭に入ってこない。
 それでも、無音の部屋にいつづけるのはつらいので、iTunesで常時音楽を流し(所有していた3000枚強のCDは、金策のためにすべて売り払った)、それに飽きるとラジオやポッドキャストに切り換える(ライムスター宇多丸さんや伊集院光さんなど、もっぱらTBSラジオにお世話になっている)。
 歌やラジオに耳をかたむけることもそうだが、僕は、つねに、ことばを求めている。
 それはかならずしも自分が編集や物書きをなりわいとしているためではないだろう。
 はじめにロゴスありき、という聖書の一節をあらためて引くまでもなく、ひとはみな例外なく、ことばによって生かされている。目のみえないひとは耳で、耳のきこえないひとは目で、たとえそれらの感覚がすべてとざされてしまったとしても、ひとはなんらかのかたちで、ことばを受けとめ、みずから発しようとする。
 家族や友人が投げかけてくれることば。僕にとって、これはなによりありがたい。
 TVはもともと大好きな人間だが、いまうかつにスイッチを入れられないのは、そこで発せられることばが、かなりの頻度で僕を弱らせるためである。ニュースのことばも、バラエティ番組のことばも、その多くがつめたくて、きつい。
 世間のことばを目にしたくて、時折、インターネットをのぞく。TV以上にむきだしのつめたさが、そこにはある。

 また足が動かない。なんとか腕の力で立ち上がろうとするが、ふんばりがきかず、太ももからふくらはぎにかけて、ぷるぷると痙攣してしまう。
 三か月ほどまえからだろうか、この症状があらわれるようになったのは。いま、症状、と書いたが、これが厳密になんらかの「症」から発生する状態なのかどうか、それすら僕にはわからない。
 症状は一日じゅうつづくわけではない。暗い考えにとらわれ、気分が落ち込んだときに、全身に低周波を流したようにかすかなしびれが走り、足がずしんと重たくなる。
 近所の心療内科で薬は処方されている。神経を落ち着かせ、意欲を向上させる効果があるという薬だ。
 通いはじめてから半年間ほどは、薬の効果(副作用)か、つねに微熱を発したときのような倦怠感につつまれ、それ以前の不眠が適度に解消されて、沈滞していた食欲もあるていど回復した。
 その薬が、脳とからだのほうで耐性がついたためか、徐々にきかなくなった。
 医師に相談し、二週間まえからちがう薬を飲みはじめた。しかし、これがまったく合わないのだ。飲んで三十分もすると気分がわるくなり、ひどいときは吐き気で眠れないこともある。それで五日まえから飲むのをやめた。
 気分はますます落ち込むばかりである。
 ひたすら自分を責めてしまう。
 この現状を受け入れて、地道にやっていくしかない、と頭では理解していても、なかなか現実は思うようにころがっていかない。
 なぜもっと善い人間になれないのか、自分が周囲にわるい影響を与えているのではないか――そんな考えが頭のなかをかけめぐる。
 そして、足の硬直……。
 僕はおそろしい。近いうちに足が、いや全身が完全に動かなくなってしまうことが。

 不調をきたしてから、一年あまり。
 去年の夏ごろからは、電車やバスに乗ることも困難になった。車内の椅子に腰かけているだけで、わずかでも空間を占有していることがたまらなく申し訳なく思えてしまい、頭をかかえてうずくまるよりほかなくなるからだ。
 そんなわけで、移動するときはもっぱらタクシーを利用するようになった。
 しかし、僕みたいな自転車操業の自由業者にとって、度重なるタクシーの利用は死活問題だ。
 おまけに、編集業はいったん全面的に休業し、たまに入るごく小さな書き仕事しか引き受けなくなったため、日銭もわずか。
 何冊かの本の編集によって残っていた少額の銀行預金も切りくずしてしまった。
 金がなくてひいひい言っていたのは、失職してフリーになってからの数年間もおなじだが(いや、そのときのほうがもっとひどかった)、それでもからだが元気なのとそうでないのとでは天と地ほどの差がある。

 苦しみをやわらげようと時折、本をひらく。清冽なことばを求めて。
 映画監督の鈴木清順は、
<本はよむものではなく、みるものだ。むかし書見といったものが、何時どうして読書に変ったのか。本を読むようにしつけられてから、日本人は人間の本性を失ってしまったんではないか>(『鈴木清順エッセイ・コレクション』ちくま文庫)
と書いているが、いまの僕にとって、本はまさに「よむ」ものではなく、「みる」ものといったほうがよい。
 小説はあるていどの体力を要するので、なるべく風通しのよさそうなエッセイをえらぶ。
 今日は、田中眞澄の『本読みの獣道』(みすず書房)。
 二〇一一年に亡くなった映画史家の遺著で、刊行時(二〇一三年)以来の再読だ。
 本から感じとったこと、そして古本を買いあさる日常が、おだやかに、むりのない速度でつづられている。そのことばの速度が、すばやく動けなくなった現在の僕には、とても近しいものに感じられた。
 跋文(解説)を書いた稲川方人もまた、そのような「時間感覚」について言及している。みずからの裡でゆるやかに流れゆく時間と、あまりにも性急に、残酷に過ぎてゆく世間(稲川さんははっきり「この国」と書いている)の時間、如何ともしがたいその乖離について……。
<得体の知れぬ暴力かとも思えるその時間の無為と空虚さを、なんとか引き留めたいと思うものの、無軌道と無恥を極める国家の機構と、その機構を組織し、それに準じる人々の愚かさがさらに日々の速度を加速させて止まない>(『本読みの獣道』)
 いつ終わるともしれない苦しみの時間のなかで、一日一日を生きのびることは、いわば解けそうな一本の綱の上をあるくようにきびしく、心もとないいとなみである。

***

 ここに書いたような状況は、一部の友人知人には去年より打ち明けていることである。だが、こうして文章にまとめたのはこれがはじめてだ。
 ひととおり書き終わったのは、二〇一六年四月一四日の夕方だった。ご承知のとおり、この直後、熊本を震源地とする大きな地震が発生した。
 熊本には何人かの知人がいる。みな余震におびえながらも、平穏な生活をとりもどそうと一所懸命だ。
 無力な僕には、大丈夫?、と声をかけることしかできない。
 ましてこんなときに、自分のささいな窮状をうったえるのは、しのびなかった。
 もともとだれにむけて書いたわけでもない文章だ。このままハードディスクの片隅にしまっておこうかとも考えた。
 だが結局、ひっそりとここに載せることにした。
 とてつもなく苦しい思いをしているひとたちと自分をくらべるつもりも、その資格もまったくないけれど、現在の僕の日常、そのよるべなさを、残酷に過ぎてゆく時間のなかに、なんとかとどめておきたかった。
 ごまかしなく、清冽なことばであらわせたかどうかは、正直、自信がない。
 題名は、僭越ながら、敬愛する沢田研二さんの同名曲より流用した。記して感謝したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?