みえないもの、不確かなものに目をこらし、耳をすませること――『(ハル)』

 読ませる映画である。
 といっても、複雑なストーリー展開を読ませる、とか、隠されたテーマを深読みさせる、とかいった意味ではなく、物理的に文字を「読ませる」映画なのだ。
 時代は、インターネットが徐々に家庭に浸透しはじめた一九九〇年代半ば。美津江(深津絵里)は(ほし)というハンドルネームをつかい、パソコン通信の映画フォーラムにアクセスしていた。そこへある日、(ハル)というハンドルネームをもつ昇(内野聖陽)が現れる。メールでのやりとりをつうじて相手に対する興味を深めてゆく二人。日常のささいなできごとから深刻な悩みまで相談し合ううち、二人は互いをたいせつな存在と認識するようになる。
 この映画は、パソコン通信のチャット画面や、主人公の二人が互いにやりとりするEメールの文面を、青地のスクリーンに白い文字で表示する、という手法をもちいている。観客は、無声映画の字幕を読む感覚で、その経過を追ってゆく。そう聞くと、なんだか肩のこりそうな映画に思えるかもしれないが、文字があらわれて消えるタイミング、背景に流れる音楽や効果音、合間に挟まれる風景描写など、じつにきめ細やかに演出されていて、しぜんと作品世界に入り込んでしまう。
 とはいえ、やはり大胆な試みにはちがいない。ふつう、よくできた映画は、文章であらわせないもの、映像でしか表現できないものをこそ描こうとするものだ。登場人物の考えていることをそのままセリフで提示するような演出は「非映画的」で下手といわれる。しかし、この映画の場合、人物はEメールをつうじて自分の状況や気持ちを相手につたえるため、観客に対してもそれらはことごとく文章で説明されてしまう。では、観客に想像させる余地のない、豊かさに乏しい映画なのかというと、まったくそんなことはない。むしろ、ことばの奥にある感情をさらに想像したり、ことばとは裏腹な状況を感じとったり、主人公たちとおなじく、ひとの気持ちに敏感になっている自分に気づくはずだ。
 そう、この映画は一見、文字ばかりの饒舌な映画に思えるが、実際には、はっきりとみえないもの、不確かなものに目をこらし、耳をすませよ、と言っているのだ。そして、そういう事物に対する敏感さこそ、恋愛、とりわけまだ形をなしていない時期のそれにとっては重要であることを教えてくれる作品となっている。
 森田芳光監督は、クランクイン前、俳優たちやスタッフにエドワード・ホッパーの絵をみせて、「こういう映画を撮りたいんだ」と話したそうだ。ホッパーは、都会のありふれた風景のなかにたたずむひとびとを好んで描きつづけたアメリカの画家である。人物の表情は、光と影によってつぶされ、はっきりと感情を読みとることができない。だからこそ、鑑賞者はその奥にある心理を想像したり、みずからの「気分」を重ね合わせたりする。この映画でも、人物の表情はあえてニュートラルに抑えられ、日常的な風景と同一化するようにとらえられている。口に出すセリフもごくわずか、くぐもって聞きとりづらい箇所も多い。
 最も印象的なのは、盛岡に住む美津江の家の近所を、昇が新幹線で通り過ぎるシーンだろう。このとき二人は、互いにハンディカメラを持ち、相手の姿を確認しようとする。肉眼でしっかりと目視するのではなく、カメラのファインダー(液晶モニタ)ごしに、二人は相手をみる。のちに撮影した映像を確認しても、互いの顔はぼやけていてわからない。
 通常の恋愛映画では、いわゆるボーイ・ミーツ・ガール(男の子と女の子が出会う)によって話が起動し、誤解や嫉妬や外的な障害などさまざまなドラマのうえに、文字通り相手の顔色をうかがいながら、関係が進展してゆく。この映画にもその要素はあるのだが、顔がみえない、わからないということがとても大きな効果をうんでいる。
 だからこそ、ようやく二人が向かい合うラストシーンがひときわ感動的に映るのだ。
(『心が疲れたときに観る映画 「気分」に寄り添う映画ガイド』2017年)

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