東京の甘味(1) ふたつのハクスイドウ

 先日、久しぶりに用事があって、麻布十番をおとずれた。
 情報誌やガイドブックで、「大人の街」という呼称がたびたび使われるけれど、いま東京で、真に「大人の街」と呼びうる街はどれくらい残っているのだろう。地下鉄南北線と都営大江戸線が開通する以前の、いかにも隠れ家然とした感じは失われてしまったものの、麻布十番はまだなんとか大人の街(この場合は「大人の町」と書いたほうがしっくりくるか)の雰囲気を残している。
 かつて「大人の街」だった隣町の六本木が、どんどんありきたりなアミューズメントタウンに変貌していくのに対し、麻布十番は、古くからの落ち着きが残り、そこに住んでいる人の息吹が感じられる。観光客もふくめて、道行く人たちが「地慣れ」している感じがする。だから、心地よい。ふらりと散歩するだけで、自分まで麻布十番の住人になったような気がする。
 それだけに、久しぶりにおとずれた麻布十番で、その店がなくなっていたのを知ったときは、とてもショックだった。麻布十番の風景のなかに、その店は、いつでも、あたりまえに、ありつづけるものだと思っていたから。
 その店とは、かすてらの白水堂である。カステラではなく、かすてら。
 「釜上かすてら」の商標で知られた白水堂は、明治二〇年に長崎の思案橋で創業した。明治三九年に東京でおこなわれた日露戦役凱旋記念共進会のさい、東宮殿下御用品として献上され、大正三年、麻布十番に東京店を開店。これが、長崎かすてらの地方進出の第一号となった。
 かすてら好きがもっともこだわるのは、底についているザラメ糖である。これがたくさんついていればいるほど、うれしい。だから僕は、文明堂よりも福砂屋よりも白水堂のかすてらが好きだ(った)。
 それに、白水堂のかすてらのスポンジ生地は、卵の味が濃厚だった。安物のかすてらは、口にふくんだときにぼそぼそとして、お茶がなければちょっと食べるのが億劫である。その点、白水堂のかすてらは、スポンジじたいが甘く、しっとりとしているので、口どけがよかった。この口どけを求めて、ほかの店のかすてらをいくつもあたったけれど、結局、白水堂に匹敵するものは見つからなかった。
 店におじゃますると、いつも、おかみさんが小さな椅子にちょこんと座って店番をしていた。ときどき、工房でかすてらを焼くご主人が顔を見せた。お二人とも、とてもシャイな人たちだった。
 お昼を過ぎると、看板の上にひさしが掛けられた。その薄暗がりが、いかにも老舗の菓子屋といった風情で、僕のなかのノスタルジーを刺激した。
 そんな白水堂を、僕は久しぶりにおとずれた麻布十番の街なかで、ついに発見することができなかった。ファーストフードや居酒屋が軒を連ねる商店街の一隅を、何度も行き来したけれど、見つからなかった。
 そして、やはり麻布十番に行くたびに必ず覗くことにしている「豆源」のおばさんから、白水堂が閉店したことを聞き、僕は大きな喪失感を味わった。
 これから麻布十番をおとずれるとき、僕ははたして白水堂の場所をおぼえていられるだろうか。
 と、ここまで書いたときに、神保町のもうひとつのハクスイドウにまつわる悲報が舞い込んできた。
 そのハクスイドウとは、靖国通りに面した地下鉄の出口のすぐそばにある「高級洋菓子の柏水堂」のことである。
 昭和四年にフランス料理店として創業した柏水堂は、太宰治や三島由紀夫、さらには小津安二郎や向田邦子がご贔屓にしたことでも有名だ。奥の喫茶スペースには、創業当時からのステンドグラスがいまも残っている。
 生クリームケーキよりもバターケーキのほうが好きな僕にとって、柏水堂はいまや貴重な店の一つである。
 子どもの頃、祖父母につれられて、僕はたびたび、ここのケーキを食べに来た。それはとても幸福な時間だった。
 最後に、この店を訪れたのは、三年ほどまえ、あるガイドブックの取材のためだった。ライターだけでなくカメラマンも兼任していた僕は、あのステンドグラスを写真に収めた。
 その柏水堂で火事が起こった。どうやらビルの四階にあった寝室の電気ストーブから出火したらしく、そこで寝ていた会長の吉田奎子さんが亡くなった。八十六歳だった。
 僕は、吉田さんとは面識がなかったけれど、若き日にイギリスを訪れ、そのケーキの味に感動したハイカラな女性が、柏水堂の創始者であることは知っていた(やはり吉田さんが考案した名物のプードルケーキが、漫画「ハチミツとクローバー」に登場し、その読者である少女たちがこの店を訪れ、ちょっとしたブームになっていたということは、今回の新聞記事で初めて知った)。
 店の営業じたいはつづくというから、ほっとしたけれど、あのステンドグラスがどうなったのか。僕は、いま、とても気になっている。
(2010年頃執筆)

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