過去のない現在、あるいは「老害」について

 さいきん、ネットニュースで「●●さんの若い頃の写真に反響。××さんにそっくり!」などという記事をよくみかける。実に他愛のない、いわゆる「ネタ記事」なのだが、僕はそれをみるたびに、どこか居心地のわるいような、妙な違和感をおぼえる。
 そして、ふと、あるTVドラマのことを思い出して、僕はその違和感の正体を理解したような気がした。
 と当時に、これもやはりネットで頻繁に目にする「老害」ということばが、頭にうかんだ。
 そのTVドラマとは、山田太一脚本によるNHKの連続ドラマ「男たちの旅路」の一篇で、名作の誉れ高い「シルバーシート」である。

 「男たちの旅路」は、鶴田浩二演じる元特攻隊のガードマン吉岡と、彼のもとにつどう水谷豊、桃井かおり、柴俊夫ら若者たちの姿をとおして、世代や境遇の異なる人間同士の交流と断絶、その背後にある社会のさまざまな問題をみつめた作品だ。
 「シルバーシート」は、全4部(各3話)からなる同シリーズのうち、3部の第1話にあたるエピソードで、初放送は1977年。志村喬、笠智衆、加藤嘉、藤原釜足、殿山泰司、佐々木孝丸ら当時すでに「伝説的」な存在となっていた老名優たちが一堂に会したことでも知られる。
 いま「伝説的」と書いたが、このまさに名だたる名優たちが扮する「名もない」老人たちのことばを、いかに「伝え説いていく」か(あるいは「伝え説いていく」ことが困難か)、ということがこのエピソードの全体をつらぬくテーマとなっている。

 冒頭、羽田空港の国際線ターミナルに、寂しげに背をまるめた本木という老人(志村喬)がやって来る。どこへ行くのかと尋ねる空港警備の2人の若者(水谷豊、桃井かおり)に対して、本木は「ロンドン……」と口にするが、ロンドン行きの便に乗ることもないまま、とうとうとじぶんの過去にまつわる話をするばかり。
 実は本木は、話し相手を求めて頻繁に空港を訪れていたのだが、応対に困った係員たちのあいだで厄介者あつかいされていたのだ。2人の若者も最初は善意で耳を傾けていたものの、やがてしびれを切らし、本木をその場に残して去ってゆく。
 しばらくのち、本木は脳溢血で静かに息を引き取る。
 その後、若者たちと吉岡は、本木の仲間だった数人の老人たちと交流をもつ。そして、彼らのなかにいわく言いがたい寂しさがあることを感じとるが、具体的にそれがなんなのかを理解することはできない。
 やがて、老人たちは車庫に停まっていた都電の車輌に立てこもってしまう。周囲は、なぜ老人たちがこんな行動を起こしたのか、理由がわからず途方にくれる。
 そして、吉岡が単身、彼らと話をすることになる。
「(私たちは)棄てられた人間です。いずれあなたも使い棄てられるでしょう」
と、老人の一人は吉岡に言う。
「気の毒だとは言ってくれる。同情はしてくれる。しかし、敬意を表する者はいない」
「人間はしてきたことで敬意を表されちゃいけないのか。いまは耄碌ばあさんでも、立派に何人もの子どもを育ててきたということで敬意を表されちゃいけないのかね。空港で亡くなった本木さんにしても、死ぬ前は、昔の話だけをするただのじいさんだったかもしれない。しかし昔、ロンドンで有能な記者だったことがあるんだよ。そういう過去をたいせつにしなきゃ、人間の一生って、いったいなんだい?」
 脚本家・山田太一は、ここで老人たちの言い分を一方的にしゃべらせて終わらせるのではなく、吉岡にこれもまた切実な響きをもった「反論」をさせることで、観る者にゆさぶりをかける。
 じぶんの戦友たちの「ほんとうの姿」があまりにも早くひとびとの記憶から消え、さらには多くのひとが誤解してたかをくくっている——そのことに吉岡はやりきれない思いを抱いている。しかし彼は「それを世に訴えようとは思わない。ことばでつたえられるようなことはたかが知れている。つまりは、一緒に生きた人間が忘れずにいてやるしかない」と言う。そして、老人たちがおかしたことについて、それこそ「立派な過去を汚すだけではないのか」と疑問を呈する。
 だが、老人たちは、さらに吉岡に言う。
「あなたの言ってることは理屈だ」
「あなたの20年後ですよ。20年後にはいまのこの私たちと同じです」
「20年後にはわかる。あなたの言ってることが理屈だということがわかるよ」
 このあとにつづくやりとりは、文字ではなく、是非ともドラマ本編を観て、俳優たちの表情をその目でたしかめ、豊かな口跡に耳をすませてほしい。
 論理と感情のせめぎあいの先に、それでもなお容易には乗り越えられない断絶を、吉岡にも、若者たちにも、そして観る者にも突きつけたまま、ドラマは幕を閉じる。

 人間には、過去と現在が(そして、場合によっては未来も)ある。
 冒頭でふれた「●●さんの若い頃の写真に反響。××さんにそっくり!」という記事に、僕が違和感をおぼえるのは、そこに「現在」しか存在していない気がするからだ。
 「××さん」には現在、世間でひろく人気をあつめている有名人の名前がはいる。そのひとこそが、現在の「ヒーロー(ヒロイン)」なのだから、あたりまえといえばあたりまえだが、そこに「××さんは●●さんの若い頃にそっくりだ」という視点は、ない。
 この記事のなかで、●●さんは、あくまでも「現在の(姿の)●●さん」でしかありえず、「若い頃の●●さん」は、現在の「××さん」の姿をとおしてしか認識されていないのである。
 こんなネタ記事ひとつでなにをおおげさな、と思われるかもしれない。単に、言葉尻をつかまえているだけかもわからない。
 しかし、僕には、どこまでも現在しかないこの光景が、とてつもなく居心地のわるいものに思えてしかたないのだ。
 それはおそらく、僕が本の編集というしごとに従事するうえで、過去と現在を「材料」にすることが多いためだろう。
 そして、じぶんが直接的に知りようのない過去の事物をあつかう以上、その作業はかならず現在の視座から出発せざるをえない。
 つまり、そこには現在の僕の見方をとおして再構築された過去が存在することになる。
 そのような再構築された過去について、まさにその過去を実体験として知る世代のひとたちから、非同時代性を指弾されることはめずらしくない。「認識が甘い」「実感がともなっていない」「当事者でもないくせに」などと。
 こうした反発にあったとき、じぶんの仕事につよい自負をもってとりくんでいるひとほど、口うるさい先達をうっかり「老害」と認識してしまう。
 「シルバーシート」に登場する老人たちは、吉岡からみればある種の「老害」であり(もちろん、吉岡はそんなことばは口にしないけれど)、そんな吉岡も、若者たちからみれば時に厄介な「老害」にほかならない。
 そして、言うまでもなく、このドラマの放送当時、若者だった彼らも、すでに現在の若者から「老害」とよばれる存在になって久しい。

 現在は、こうしてつねにめまぐるしく過去にかわりはててゆく。その流れを逆転させることは、誰にもできない。
 それを大前提としたうえで、若者(現在)は老人(過去)の声に、老人は若者の声に、互いに耳をすませること——過去のない現在や、「老害」という身も蓋もないことばの氾濫に歯止めをかけるには、それしかない。
 このうえなくむつかしいことではあるけれども。

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