坂本龍一の「ダウンタウン理論」は正しかったのか

 坂本龍一の訃報を伝える記事が各紙誌に掲載されるなか、インターネット上で目にしたいくつかの記事が、坂本氏とダウンタウンとの関わりについて書いていた。
 かつてのフジテレビの人気番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」における「アホアホマン」や「野生の王国」といったコントでの共演、ラップユニット〈GEISHA GIRLS〉のプロデュースなどである。
 それらの記事を読んで、筆者は、坂本氏が小説家の天童荒太との対談集『少年とアフリカ』(文藝春秋、2001年)で語っていたことを思い起こし、ツイッターに以下のツイートを投稿した。

 このツイートは予想外に拡散されたが、引用リツイートなどを確認すると、この対談集での坂本氏の発言は意外と知られていないようである。
 この本は、当時『永遠の仔』でベストセラー作家となった天童氏と、そのTVドラマ版のテーマ音楽を手がけた坂本氏との二度にわたる対談を活字化したもので、結構話題になったような記憶があるのだが、調べてみると現在は単行本・文庫本ともに版が切れているらしく、それなりに高い古書価がついている。

 それなら具体的に本の内容を引用しつつ再度ツイートをしようと思い、本棚の奥から引っ張り出した同書を再読したところ、あらためて思うこともあったので、ここに記すことにした。

 まず、この本の概要だが、副題に「音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話」とあり、坂本氏と天童氏がそれぞれに現代の社会問題、あるいはもっと漠然と社会の「空気」に言及しつつ、表現者として自身がそれらをどう受け止めているかを語り合っている。
 タイトルの通り、第1章が「少年」、第2章が「アフリカ」となっており、1章では天童氏の『永遠の仔』の話題をきっかけに、児童虐待、学校、子どもが関わる事件、じぶんたちの少年時代について、2章では休暇でケニアを訪れた坂本氏の話を発端に、土地や民族、生物学的命題、死生観などについて会話が交わされる。

 ダウンタウンの話題が出てくるのは第1章で、109ページからのくだりに「ダウンタウン理論」という小見出しが付されている。

 ここで坂本氏は、日本がアメリカの「疑似植民地」になっているという話や杉原千畝の話、小渕恵三が倒れたあと自民党が密室で森喜朗を首相に仕立て上げたことへの強烈な怒り、「東京の自動車の運転が年々すさんでいく」ことなどを例に挙げての都市のなかの暴力性などに言及したあと、天童氏とつぎのようなやりとりをしている。

坂本 昔からあった日本なりの秩序が、ここ二、三年で大きく崩れちゃった。
天童 それは、そこここで微妙に感じます。
坂本 なんでだろう。
天童 なんででしょうね。
坂本 僕は、ダウンタウンのせいだと思う。
天童 面白くなってきた(笑)。
坂本 僕には、ダウンタウン理論というのがあるんですよ。

 そして、天童氏の「そのココロは?」という問いかけに対し、坂本氏はこう応えている。

 ダウンタウン前とダウンタウン後で日本人の心は大きく変わった。
 つまりね、ダウンタウンの原型は、僕らの世代にあるわけ。権威を信じない、笑いたい、失墜させたいというのは、一九六〇年代的でしょう? でもそれは、社会に権威があってこそ成り立つ方法で、六〇年代はそうだった。でも、いまは反抗すべき権威はなくなっている。それなのに、なんとか権威を失墜させようとするあまり、倫理的な規範とか社会的なルールを壊そうとしてしまっているんだよね。
 あれもこれも壊して当たり前、壊すのが普通なんだというところまで進んでしまうと、社会は崩れるしかない。いままで、面白おかしいかたちで、いちばん体現したのがダウンタウンだったと思う。その前のお笑いを引っ張ってたのはビートたけしだけど、たけしの笑いの基本はやっぱり、挑発すべき権威というのがある時代のものだから、ダウンタウンとの間には大きな断絶があるよね。

 このあと、天童氏が、たけしもまた一種の権威になってしまいつつあることを指摘したうえで、そのあとの世代、つまり「反抗するような権威がすっかりなくなっている時代状況」のなかで出現したダウンタウンが「社会通念とか、一般常識として人々を縛っていたものに対して、ユーモアをもって受け止められやすい大阪弁で、『おかしいんちゃうかい!』と言う」ことが時代の感覚にフィットしたのだろうと語っている。

 そして、坂本氏はダウンタウンの現在(2001年当時)について、こう持論を述べる。

 挑発すべきものがなにもないところでやってるから、パフォーマンスとしての反抗にならざるを得ない。ここ二、三年のダウンタウンの芸って、年下の芸人をいたぶってるだけで、一言で言うと、「どんくさいやつをいじめてなにが悪いの」ってことでしょ。
(中略)
 多少なりとも規範があった時代には、ダウンタウンの芸も新鮮だし、面白かった。子どもがいきなり人を刺したら、異常な事件だと思える社会では、いきなり人をどつくダウンタウンは面白かった。
 でも、いまはダウンタウンのやってることが、社会のスタンダードになっちゃった。初対面の人をどつくとか、いじめてなにが悪いって開き直るのが、当たり前になった。
 結局、子どもたちはみんなダウンタウンをやっている。だって、いまのいじめとか少年犯罪のパターンって、ほんとダウンタウンそのままじゃない?

 このあと「松本人志はあのすごい才能で、そういう社会を啓示したんだよ」と締めているように、坂本氏はダウンタウン(および松本人志)が、ある時代において先鋭的な表現者だったことは大いに認めている。
 というよりも、先鋭的な表現者だったからこそ、それが社会、とりわけ子どもが生きる社会のさまざまな場面に作用し、「社会のスタンダード」をつくりあげるに到った、というのが坂本氏の意見である。
 もちろん坂本氏は、このあと天童氏の「ダウンタウン自身は、受け手の問題だと言うだろうし、自分たちが権威になることも望んでないでしょう」という発言に対し「それはそうです」と応えていることからもわかるように、そうした状況がダウンタウンの意図したものではないこともふまえている(表現者の「意図」と、客観的な状況把握もまた別であることは言うまでもないが)。
 さらにそのあとで「権威に反発して、ルールがないことはいいことだと戦後最初に言ってたのは、僕らの世代なんだよね。いわゆる全共闘世代。いま僕らの世代が親になり、教師になって、そういう子どもを育ててしまっている」と語っていることから察するに、坂本氏の「ダウンタウン理論」の眼目は「ダウンタウン的なるものを生み出したじぶんたちの責任」にあるのかもしれない。

 だが、筆者はいまあらためて坂本氏の「ダウンタウン理論」を読み直し、その前提となる認識がはたして正しかったのか、という疑問を抱いた。
 前提となる認識とはすなわち「(「反抗すべき権威」を失った時代においてなお)ダウンタウンは権威を失墜させようとしている」という認識である。
 この認識を前提とすればこそ、ダウンタウンについて、坂本氏は「権威を失墜させようとするあまり、倫理的な規範とか社会的なルールを壊そうとしてしまっている」と語り、天童氏もまた「社会通念とか、一般常識として人々を縛っていたものに対して、ユーモアをもって受け止められやすい大阪弁で、『おかしいんちゃうかい!』と言う」と語っているわけだが、「ごっつええ感じ」の放送当時、まさしく十代の「少年」だった筆者からすると、ダウンタウンはそもそも「反権威」を標榜していた笑芸人ではなかったように思えるのだ。
 いや、この『少年とアフリカ』を最初に読んだときには、筆者も坂本氏と天童氏の見立てにウンウンと頷いていた記憶があるのだが、いまあらためて考えてみると、ダウンタウンが先鋭的に感じられたのは、「おかしいんちゃうかい!」的な反権威的態度をそこに見ていたからではなく、むしろ一般社会における常識、了解事項を拡大して見せるような――「おかんとマー君」然り、「トカゲのおっさん」然り――「な、そやろ?」的デフォルメの面白さによるところが大きいのではないかと思うのである。その意味で、ダウンタウン(および松本人志)の笑いは、かつてライムスター宇多丸氏が指摘したように、「日本的文脈」の再確認ともいうべき、きわめてドメスティックな種類の笑いといえるだろう。
 というようなダウンタウン論はひとまず措くとして、そういう筆者からすると、ここでの坂本氏と天童氏の見立ては、坂本氏自身が最初に語っているように「一九六〇年代的な、あまりに一九六〇年代的な」視点に縛られているような気がする(まさに一九六〇年生まれである天童氏は、いささか坂本氏の論の進め方に引っ張られている感があるが)。

 そして――。
 この坂本氏の「ダウンタウン理論」を現在の視座から再検討してみて気づかされることがある。
 それはつまり、反権威ではなかったダウンタウン、きわめてドメスティックな笑いの追求者であったダウンタウン、そしてビートたけしと同じくもはやみずからが権威と化したダウンタウンの「現在」が、まことにもって必然的な帰結にほかならないということだろう。
 『少年とアフリカ』から二十余年、坂本龍一のなかで「ダウンタウン理論」が更新されていたのか否かは知る由もないが、「倫理的な規範とか社会的なルール」が壊れきった時代の、この皮肉な権威のあり方には、おそらくなにかを感じ取っていたにちがいないと思う。

4月5日追記:ツイッターに補足を書きました。


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